一九七〇年 夏~秋
2 秘密基地の大貧民
どこ吹く風で岡田が答えます。
「いつからほこいおったん。いっちょも気がつかんかったわ」
もう一人はマユミの母親の佐々岡志乃さんでした。
「ずっと前からおったわ」
「今のうちのマユミと洋一みたいじゃったけんど、何ぞあったん」
心配そうに聞いてきます。
「なんちゃない。いけるけん」
事実を偽って、岡田たちと一緒に梯子を下りました。
「おまいや。もうじき日も暮れるぞよ。はよいんだほうがええんとちゃうか」
以前から祖父は彼らを疎(うと)ましがっていました。
七條と中川が肩を聳(そび)やかして、祖父の前を通過していきます。
「ほないぬわ。また遊ぼな」
岡田が目配せしてきました。
「ほなな。いつでもええよ」
私は片手を上げて共犯者のサインを返しました。
「ちっとは勉強もせえよ」
岡田たちが帰ってしまうのを待って、祖父がささくれた声で言いました。
「わかっとう」
私は志乃さんの前でビクビクしていました。
「まあええわ。今から牛の手伝いするんぞ」
祖父が地下足袋(じかたび)の牛糞を落としながら言います。大人たち二人は妙に気まずい顔で、周囲を見まわしたり、わざと空咳(からせき)をしたりしていました。
「呉市っつあんに、うちの父やんのことを相談しょったんよ。ずっと家いもんてけえへんじゃろ。どこいおるかはわかっとんじゃけんど、どないしたらええかと思うてな」
聞きもしないのに、志乃さんが取り繕(つくろ)うように言いました。
「高はんも困ったもんじゃよ。男ぶりがええけん女がほっとかんのだろけんど」
錆びた鉄柵に寄りかかった祖父は、気取った仕草でマッチを擦り、両切りの煙草に火をつけます。
「今度会うたらワシからよう言うてきかすけん」
紫煙の甘く濃い香りが牛糞のにおいに混じって漂いました。
「よろしゅうたのんます」
頭を下げる志乃さんの、男物のメリヤスのシャツに、たわわな乳房と尖った乳首が浮き出しています。日に焼けて浅黒い顔は農婦然としていますが、服に秘された肌は一旦溶けて固まりかけた蝋ろうのように透き通っているのでした。
「うちが来とったんは、お父はんには言わんとってな。うちの人に知れたら、ひどう怒らいるけん」
志乃さんと私の父は小学校の同級生でした。
「ほなまたケンちゃん、うちのマユミと遊んだってな」
志乃さんは手拭(てぬぐ)いを被り直して出て行きました。その後ろ姿がとても疲れているように見えました。
「志乃さん、いけるん」
只(ただ)ならぬ雰囲気を察知した私は祖父に聞きました。
「だいぶん参っとるようじゃな」
祖父が煙草を踏み消して言います。
「どなんしたげたららええん」
「どなんもでけんわ。高はんはじぇんで脳が狂うてひもうとる」
田んぼ道を外車で飛ばすスーツ姿の高雄さんを思い浮かべました。
「お金持っとったら頭が狂うん」
「病気じゃよ。何してもええと思うようになるんじゃろな」
「誰でもほうなるん」
「じぇんがあり過ぎて、人生棒に振った奴はすぐ近くにもおるでないか。おまいもよう知っとるじゃろが」
祖先より受け継ぐ大きな資産を酒と女と博打(ばくち) でスッてしまった、小室家の長男にまつわる与太話を、十町歩もあった田畑がどんな経緯(けいい) で人手に渡ったか、借金取りに追い詰められた家族がどうなったかを、祖父は嬉々(きき) として語りはじめます。
そのうち祖父は自分の弁舌に酔っていき、親の敵かたきとでも言わんばかりに『金』への嫌悪を募(つの)らせ、地道な努力とその結果もたらされるべき『清貧(せいひん)』を称賛しました。
この拘(こだわ)りはしかし、反面拝金主義者のやっかみであることは疑いようもありません。『金』は人の心を惑わす恐ろしいものであり、それよりもっと貴重なものがあると言いながら、その実切望しているのもまた『金』なのでした。
「とにかくじぇんの奴隷になったらあかん」
「ほな、どなんしたらええん」
私は首肯(しゅこう)しながら聞きました。
「男はじぇんよりこっちじゃ」
祖父が汚れた作業ズボンの股間を揉みました。
「ちゅうんは冗談で、ほんまはここよ」
金歯を見せながら心臓の辺りを叩いて見せます。
「綺麗な心じゃ。心が毒されたらあかん」
「わあった」
その時、私は『金』が人間の害悪だと理解しました。
しかし、それは邪(よこしま)な呪文(じゅもん)のようなものであり、人間の様々な営為(えいい)の中に目を背(そむ)けたくなる醜悪(しゅうあく)さを見出す度に、私の前へ浮上してきました。
『金』にまつわる差別は恨みを呼び、恨みが呪(のろ)いの炎となって燃え盛り、世界中の人間を焼き尽くしています。金持ちだけでなく、私や祖父のような貧乏人だって同罪なのです。この資本主義、経済至上主義の世の中は誰が何と言おうと、金の亡者(もうじゃ)たちの唱える強固な呪詛(じゅそ)の上に成り立っているのでした。
「さあ、仕事じゃ」
祖父が壁のスイッチを入れると、搾乳機(さくにゅうき)のバキュームは威勢のいい音を響かせました。乳房の張った牛の乳首に吸い口を付けると、チューブを通って生乳が缶へ落ちはじめます。腹を空かせた牛たちは競うように鳴き騒ぎました。
祖父はこの僅か数カ月後に、牛の角に引っかけられ、その傷からどんな抗生物質も効かない病原菌に感染し、糞や小便を垂れ流しながら、激しい痛みに苦しむことになります。
それはまるで呪われたとしか思えない有様でした。
幸いにも一命は取り留めますが、脳に残った障害のせいで一気に年を食ってしまい、それはその後、脳卒中の原因ともなっていきます。私はいたく同情しましたが、その一方で、近しい者がたまたま身代わりなってくれたような、ある種の安堵を感じていました。
私はコミ切りで小さくした藁を牛の鼻先へ分配していきます。やけに赤々とした夕陽が足元を照らし、蜩(ひぐらし)は高い声で鳴いていました。
しばらく御無沙汰(ごぶさた)の雨がいつ来るのかと、作付けの段取りをせねばならない祖父は、隣家の屋根の向こうを見遣やりましたが、暮色(ぼしょく)に染まりはじめた空を隠すほどの雲もなく、やがて薄墨(うすずみ)を刷(は)いたような夏の夜となりました。