22歳~75歳までの「家住期」 一家の主として
昭和40年(1965年)から始まった「いざなぎ景気」は、昭和43年(1968年)に日本のGNP(国内総生産)が世界第2位になり、昭和45年(1970年)にかけて57カ月間続いていました。
その前年の昭和44年(1969年)に卒業し、4月から国内一部上場企業の音響製品の製造・販売会社へ就職しました。音響業界は、当時の花形産業でした。
会社は、製品の7割近くを海外に輸出しており、いずれは、その製品を海外で販売する営業の仕事を熱望して入社しました。当時の音響業界は、ソニーがトランジスターを開発し、小型トランジスターラジオを輸出していました。
またパイオニアは、従来の一体型ステレオから、コンポネント・ステレオを開発・販売していました。その後、ラジオとテープレコーダーを一体型にしたラジカセを中堅会社が製造し、積極的に海外市場に輸出していました。当時の「為替レート」は、1ドル360円の固定相場制であり、輸出企業は大いに潤いました。
しかし、いつまでも日本の思う通り事は運びませんでした。昭和46年(1971年)、アメリカのニクソン大統領の発表によるドル・ショックで、円相場は調整され、輸出は陰りを見せ始めました。
それでも入社2、3年目の私は、呑気に社内の野球部に入り、休日には社外の会社と交流試合などして青春を謳歌していました。
入社後6年目に社内結婚することになり、社長に式への出席をお願いに行った際に、社長秘書から、「社内結婚は、金魚鉢の中の金魚をすくうようなものね」と冷やかされたことも懐かしく思い出されます。
翌年には長女が誕生しました。その頃は、仕事が多忙で、誕生後すぐには病院に行くことができず、誕生してから一週間後にやっと子供の顔を見ることができました。そのことは、今でも思い出したように責められることがあります。今では決して許されざる行為です。
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