数日後、久船は整形外科の有床診療所を開業している柏原思計に飲み会で会った時に、国田がこの会話を問題視して、困惑していることを話した。問題の会話の前は骨折の話で大腿骨骨折であった。それから、いきなり「だいてちょうだい」。
柏原はヒントは骨折にあると考えた。A子と部長との間に、骨折の話から「だいて」と飛躍した会話になっていることから謎解きが始まった。柏原は整形外科医らしく久船に大腿骨の解剖学的用語について解説をした。すなわち、大腿骨骨折は大きく分けて、体幹に近い部位を大腿骨近位部、中央部を骨幹部、膝に近い部分が遠位部で顆部ともいう。高齢者に多く見られる骨折は近位部である。
近位部骨折は大腿骨頚部骨折、大腿骨転子部骨折、大腿骨転子下骨折の三つがあるが、頚部または転子部の骨折が圧倒的に多い。一般的にこの二つの骨折を簡略化するとすれば、頚部骨折と転子部骨折ということになる。解剖学的部位の大腿骨頚部を大頚、大腿骨転子部を大転と略する整形外科医はいないが、研修医A子は自分なりに大頚、大転と勝手に略語をつくり、この略語を部長に伝えていたのだろう。
とすれば、次の入院患者さん、すなわち、大腿骨転子部骨折の患者さんを私にちょうだいと頼み込んだ言葉が「私に大転をちょうだい」であったと推察した。後ろにいてレポートを書いていたうら若き乙女の三年生には「私を抱いてちょうだい」と聞こえたので驚いたのではないか。それを聞いた久船はさすが整形外科医の柏原先生だと褒め上げた。これで問題は解決した。このような誤解はA子の作った略語であり、医療従事者の誰も使用していないため、A子と部長との隠語となり、大転が「だいて」と聞こえたことが原因である。
後日、久船は国田に「だいてちょうだい」の顚末を伝えたが、半信半疑であったのか、国田は無言で久船に迷惑をかけたことに謝罪すらなかった。国田の医師に対する性格からして、自分に非があっても謝罪するような女ではないことが証明された。国田は四人の専任教員を集めては看護師国家試験の話をして、百%合格を目指していると学生に話すように命じた。
勤労学生に対して、全日制の看護専門学校に負けてはならないと檄を飛ばし、相変わらずの勝気で負けず嫌いの性格を丸出しにして、専任教員にも喝を入れていた。しかし、押し付け教育だけでは学生は自分の味方にすぐなってくれるかどうか不安な一面もあった。学生同士が看護師国家試験百%合格の目標に対して一丸となって結束するためには、専任教員と学生との絆を深める必要がある。そのために、国田は課外活動を計画したのである。