瑠衣は、試験終了の一週間後がレッスン日となっていたので、わざわざ遠回りして中央線沿線の有名洋菓子店でカマンベールチーズケーキを買い、坂東の自宅へと向かった。坂東は、瑠衣を心待ちにしていたかのように上機嫌で迎えてくれた。
その日は珍しく奥様が留守とのこと、自ら淹れたてのコーヒーで歓待してくれた。十年近く通っていたが初めての経験であった。普段のレッスンは厳しく、合間に自分で持ってきたペットボトルの水を飲むのが精いっぱいだった。だが、その日の坂東は違っていた。
「瑠衣ちゃん、今日は女房が友達と温泉に行って泊ってくると言って出かけたので、たまにはゆっくりお話ししよう。ところで、実技試験の演奏素晴らしかったよ」
普段坂東は、学生を褒めたことのないことで学内では評判だったので、瑠衣は面映ゆい気がした。
「あの曲は、フルーティストの実力を試すのにもってこいの曲だけど、見事に最後までリラックスして吹けたね。君の透き通った音色は、バッハに向いているかもね。欲を言えば、弦楽器、ピアノとのアンサンブル練習をもう少しやっとくと、もっといい演奏ができたと思うよ。
本当は、ピアノがチェンバロだともっとよかったんだけどな。チェンバロを専攻している学生がいないから、ないものねだりだね。君なら、順調にいけば卒業演奏会の一員として選ばれ、全日本音楽コンクールにも出場し本選まで残ると期待してるから……。そのつもりで頑張ってね」