【前回の記事を読む】「嘘でしょう!」看護教員が耳を疑った、医療機関の学生厚遇
国田克美という女
昭和六十三年当時は看護師不足の時代であった。その理由は、昭和六十年十二月に医療法の一部改正があり、地域医療計画の策定に端を発した「かけこみ増床」が起こったことから看護師求人の増加、昭和六十二年からの景気拡大に伴う人手不足がさらに看護師不足に拍車をかけた。
また、看護師は三Kの職業の代表であるとマスコミに報道されたうえに、高齢者の人口の増加と、出生率の低下などがさらに求人難を後押しする結果になったのである。このような背景から、昭和六十三年の夏に国田が以前に看護教員をしていた頃の国立大阪東南病院長の大おお田た靖やすしから電話があった。
「国田先生、お元気ですか。教務主任には少しは慣れましたか。先生の学校は医師会立の三年課程の定時制と聞いていますが、卒業後は所属医療機関に就職されるのが前提ですかねぇー」と大田はいつもの磊落な声で言った。
「いいえ、そんなことはありません。まだ卒業生を出していませんし、二年先の就職が決まっている学生は一人もいませんよ」
「ああ、そうですか、それは良いことですね。一年後の秋には一期生の就職活動が始まりますがその時はよろしくお願いしますよ」
「こちらこそよろしくお願いします。今の三年生は定員四十人のところ三十六人ですが、さぁ何人卒業できるか知りませんが、希望者があればご紹介しますので、よろしくお願いします」
電話を切ると、国田は第一期生にますます期待を寄せるようになり、自分の教育により看護師国家試験合格率百%を目指して看護教育に邁進する決意をした。尾因市医師会は准看護師を養成する学校、すなわち、尾因准看護学院を運営している。
この学校の歴史は古い。大正六年に尾因市医師会附属看護婦産婆養成所として設立され、その後、尾因市医師会附属看護婦学校と名称が変わった。また、戦後間もない頃の昭和二十六年には呼称が尾因准看護婦養成所となり、昭和三十六年からは尾因准看護学院と校名が変更されて現在に至っている。
准看護師の歴史と伝統のあるこの学校の卒業生は約三千人以上に達しており、尾因市の病院・診療所の看護師の一翼を担っている。尾因市医師会は明治四十年の設立で、そのわずか十年後に看護婦養成施設を開設した先輩たちに対して、その歴史と伝統に医師会員は感謝しているのである。