緊急走行
「赤倉さん、あたし、見ちゃったんだけど……」
消防署の女子更衣室で着替えをしていた舞子に、主事の玉原が話しかけてきた。玉原は、小学生の子供二人をもつ四十代の女性事務員だ。
「ああ、ショックだわ。まさか、赤倉さんが……」
「……あの、何を……見たんでしょうか?」
「……一昨日の日曜日、朝から、渋谷のホテル街を……」
玉原が舞子の左耳に口を近づけてきた。
「水上くんと、二人っきりで……歩いて来るのを、バッチリ見ちゃったのよねえ」
渋谷区円山町から道玄坂にかけての界隈といえば、ラブホテルやクラブなどが林立する「夜の街」だ。確かに、明け方は朝帰りのカップルが何組も歩いている。
「……あの、玉原さん。日曜日は、私たち非番ですよ……変な想像は、やめてください」
日曜日、玉原は子供たちを連れて午前中一番の映画を見に、渋谷に来ていたらしい。
「第一、菅平隊長も一緒でしたよ。警防調査、です」
八月下旬、機関員の岩原が救急救命士養成課程研修に出向した。三月の救急救命士国家試験が終わるまで、消防学校での研修に専念することになる。代わりに、渋谷三部救急隊の機関員に任命されたのは、これまで出張所のポンプ隊員だった水上である。水上は早く救急隊に配属されたくて、最近、救急機関員研修に行ってきたばかりの新任機関員だ。
ことの起こりは、水上の道路選定が検証会議で付議されたことに始まる。
十日前。
「わかりました。新宿区のT医大救命救急センターに向かいます」
菅平が無線交信で搬送先医療機関名を復唱し、救急車は現場を出発した。日曜日の昼間から……傷病者の二十二歳男性は、何らかの薬物を服用して興奮状態になり、ホテルの窓から飛び降りてしまったらしい。
不幸中の幸いで、現場が三階であったため即死は免れたものの、全身を打撲し、特に右腰のあたりをかなり痛がっている。全身を観察すると、右足が左に比べて若干短いように見える。両下肢の長さに差があるのは、骨盤骨折の重要なサインだ。骨盤骨折は、見た目には傷がなくても、体内で大量の出血を起こしていることが多く、一刻も早く救命救急センターで治療を受ける必要がある。
現場は渋谷区道玄坂。南北に走る山手通り、明治通りに挟まれた地域である。西新宿にある搬送先救命救急センターまでの距離は、どちらの幹線道路を選定しても、ほぼ同じ距離だ。水上が選択したのは、救急車のカーナビが示した明治通りを北上するルートだった。