【前回の記事を読む】中国最古の驚きのものが出土…古代中国の完成までの道のりへ

古代中国の完成まで

戦国時代~西安の時代へ

もう一つ西安の名所、「兵馬俑」はあまりにも有名だし、この目で現物の力とリアリズムが見物できるから、何を感じるかは今でもすぐわかる。

秦は始皇帝の死で短い時代となり、十五年で中国はまた混乱になる。諸群雄の中から楚の貴族の項羽(BC二三二~BC二〇二)が秦に背き咸陽を攻め、皇太子を殺し、阿房宮などを焦土と化し、西楚の覇王と称した。部下を王に封じ、封建体制が復活したので、いわば反動思想だった。部下で王に封ぜられなかったので、漢の高祖劉邦(BC二五六~BC一九五)が項羽を裏切り、漢中で激突し、以下五年にわたって争った。

劉邦は中流農家の出身だが、家業を嫌い、遊侠の徒と交わったが、BC二〇八年に大軍を集めて項羽と和解し合体し、阿房宮焼滅に加わった。先陣を切った劉邦は、秦の苛政を廃し人気を博した。

当然の如く前記の長期戦になったが、項羽が破れ、直ちに国号を「漢」とし、長安(咸陽の東方約一〇キロメートル)の名を西安から改め、都とした。以後、西安が「長安」と称される。

通常、王朝の創始者に「高祖」の名が与えられるので、劉邦は「前漢の高祖」とおくり名される。

漢の政策は、一族、大功臣を諸侯王とし、功臣一四三人を諸候に封じて郡国制をしいた(日本では江戸幕府の家康がこの手法で封建制を固めた)。外交面は北方の「匈奴」の勢いも強かったため、完全に成功はできず、内外の諸問題は(前漢)第七代の「武帝」(在位BC一四一~BC八七)までもちこされた。