「駄目!」
恭子は叫んだ。これを奪ってしまうと、この人を殺してしまう事になる。男の手を振り解こうと、必死でもがく。しかし、恭子が動揺すればする程、抵抗力は強まった。死刑囚の大きな呻き声と共に、ひときわ熱い 塊が恭子の中に流れ込んできた。
同時に、死刑囚の握力から解放され、恭子は死刑囚から手を離した。男は口から涎を垂らし、白目を剝いて横たわっている。ピクリとも動かない。ただの物体が横たわっているように感じた。
死んだ……。
確認するまでも無く、判った。
私は今、人の命を奪ってしまったの?
じっとベッドの上の死刑囚を注視するが、眼と口をだらしなく開いたまま、依然として動かない。死体を見つめる恭子は、絶望感と恐怖が入り交じった罪悪感に包まれた。それは、恭子の中の何か大事なモノを一つ、失わせた。
殺人者。白い紙に、汚物を塗りたくられたような感触。恭子が失ったのはその心の白い部分だ。代わりに得たモノが、殺人者という称号。一生、誰も殺さない人もいる。人を殺めるにしろ、何か理由があってその行為に及ぶ。だが自分は、己の訓練という名目で人を殺してしまった。
恭子は下を向き、嗚咽を漏らし始めた。後悔の念が浮かぶ。こんな訓練、受けなければ良かった。
「悲しむ事はありません。この男は絞首刑で死刑が決まっていたのです。苦しまずに死ねた方が幸せだったのかもしれません」
恭子は泣き止まない。
「貴女が罪悪感を抱く事はありません。私が貴女にやらせたのです。貴女の責任ではありません。何度も言いますが、この男は死刑囚です。貴女が殺さなくても、誰かが命を奪わなければならなかった。貴女は、その代行を果たしたに過ぎないのです」
男の優しい口調に、混乱した頭が次第に冷静になる。そして、ある疑問が浮かんだ。
「どうして……? どうして私の力の事を知っているの?何故私に力を貸してくれるの?」
男は暫くの沈黙があった。
「……貴女の、おばあさんに頼まれたからです」
恭子は驚いて男を見た。
「おばあちゃんから……?」
恵比寿顔は頷いた。
「おばあちゃんを知っているの!?」
「私は、貴女のおばあさんとは同じ職場で働いていました。おばあさんは貴女と同じ能力を持っていました。貴女の方が力は数倍強いようですが……」
おばあちゃんが、私と同じ能力を持っていた……。やっぱりそうだったんだ……!
「以前から頼まれていたのです。貴女が大人の身体になった時、きっと自分と同じ能力が目覚めるから、助けになってやって欲しいと」
「おばあちゃんはどうやって力を制御していたの!?」
「……それは私にも解りません。私が貴女のおばあさんと出会ったときには、既に力を制御していましたから。それにそもそもおばあさんは命を奪ってしまう程の力は持っていませんでした。―私の知る限りでは、ですが」
おばあちゃんは力を制御出来ていた……。
恭子は少し希望が出てきた。この能力は制御出来るモノなのだ。それにしても、おばあちゃんは何故制御の仕方を教えてくれなかったのだろう。いや、そもそも何故この力の事を教えてくれなかったのか。教えたくても、病床で出来なかったのだろうか。
「それでは、明日からは違う訓練をしましょう。死刑囚にも限りがありますから」
恭子はベッドの方を振り返った。そこには、男が静かに横たわっていた。恭子が初めて殺した他人だ。
「この人は……?」
「気にする事はありません。後の事は私が処理しておきます」
恭子は男に 促されて部屋を出た。外の世界は、この部屋で何も起きなかったかのように、普通の日常が営まれていた。