その『補闕記』は、法隆寺の大火災について次のように記しています。
庚午年四月卅日夜半有レ災二斑鳩寺一。
この漢文は、「聖徳太子四十七歳、庚午の年の四月三十日夜半、斑鳩寺に火災が有った」という意味になります。
ここに「庚午年」とあるのは干支で表した年次であり、天智紀で法隆寺大火災があったとされる天智天皇九年(六七〇)と同じ庚午です。このため、一見すると『補闕記』は天智紀が伝える天智天皇九年(六七〇)の法隆寺大火災をそのまま認めているように見えます。
しかし、干支が同じだということだけで、『補闕記』が天智紀の伝える法隆寺大火災を認めていると考えるのは早計です。干支は十年周期の干と十二年周期の支の組み合わせであるという事情から、双方の最小公倍数である六十年ごとに同じ干支が繰り返される性質があり、干支が同じだからといって、それだけをもって同じ年の出来事と断定することはできません。
幸い、この記述には「四十七」と聖徳太子の年齢が添えられています。この年齢から、「庚午年」がどの年に当たるかを割り出すことができそうです。ところが、四十七歳と記される聖徳太子の年齢と庚午の示す年次とが必ずしも整合しません。
そこで、四十七歳という聖徳太子の年齢表記が、聖徳太子存命中を意味すると解釈して年次を絞り込めば、『補闕記』が伝える「庚午年」は、西暦六一〇年(天智紀が伝える法隆寺大火災の六十年前)が妥当ということになります。
すなわち『補闕記』は、天智紀が伝える天智天皇九年(六七〇)の法隆寺大火災は誤りであり、実際は同じ干支でありながら、その六十年前の推古天皇十八年(六一〇)四月三十日夜半に訂正していることが分かります。
さらに『補闕記』は、年次以外の天智紀の記述についても実質的に訂正を加えています。それは、天智紀において「一屋も餘ること無し」や「大雨や雷震があった」と記していることについて一切触れず、単に法隆寺で火災があったという記述にとどめている点です。
つまり、『補闕記』は天智紀が伝えるような派手な大火災や大雨・雷震はなかったと、消極的ながらも背後で訴えているのです。このように、『補闕記』の編者は法隆寺大火災の年次を天智紀より六十年早め、併せて大火災や大雨・雷震の表現を削除することによって、天智紀の間違いを正すことができたと自信を持っていました。