凄まじいシチリアの歴史

地中海最大の島シチリアの面積は愛知県の五倍。最古の記録はフェニキア人がパレルモなどに貿易拠点をつくったが、BC八世紀からギリシャ人がシラクサ、メッシーナ、アグリジェントなどの植民地都市をつくってフェニキア人を圧倒した。西岸にはカルタゴの勢力が入ってきたが、BC四八〇年のヒメラの戦いでギリシャ人に敗れた。シラクサは古代の終わりまでの島の政治・文化の中心であった。シラクサを二回訪れたプラトンが、ここに理想国家をつくろうとしたのは有名である。アルキメデスなどの科学者はこの地に居を置き、研究の拠点とした。

BC三世紀からローマ人がカルタゴとこの島の支配権を争うようになり、第二次ポエニ戦争の結果、島の全部がローマの属州になった。島はローマに対する穀物の主要な供給地となり、奴隷制度に基づく大土地所有制が発達した。BC一〇〇年頃土地支配者の激突が内戦に発展し島は荒廃した。キリスト教は早くから伝わり、四世紀にはほとんど全島に普及した。

民族大移動のときには、北アフリカ王、オドアケル、東ゴートと次つぎに征服されたが五三五年ビザンチン帝国領となった。北アフリカのサラセン人は八二七年から半世紀の間にこの島を征服し、イスラム文化と農業を発達させた。次いでシチリアの富に目を付けた南イタリアのノルマン人は、一一三〇年新都パレルモでシチリア王を兼ねることを法王に強制してこれを認めさせた(いわゆる両シチリア王国)。ビザンチン、イスラム両文化の上に築かれた独特のノルマン文化は、西欧にロマネスク文化として花咲いた。

一一九四年にシュタウフェン家の神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ人)はシチリア王を兼ね、ノルマン直系を絶やし、二代にわたってパレルモの宮廷文化を保護し、近代官僚制度をつくった。次にフランスのアンジュー家がシュタウヘン家を倒し、一二六八年にナポリ・シチリア王となったが、その暴政に不満を持った島民が一二八二年三月三十日、夕べの祈りの鐘を合図に反乱を起こし(シチリアの夕べ)、フランス人全員を虐殺した。以下スペイン領になったりする(平凡社『世界大百科事典』による)。この凄まじい歴史は、一八六一年のガリバルディによるイタリア統一で終わる。近代史は省略する。