教員採用試験 ~一次で門前払い、浪人の身に~

私学教員の場合は、公立校の教員採用とは違い、民間企業の就職活動と同様に、自らが履歴書や適性検査結果などを持ち込むか、郵送するなどして積極的に”就活”を行わなければならなかった。そこで、まずは大学のOBを頼るなどして、自分の売り込みから始めた。また縁故、知人紹介などいわゆる「コネ採用」も巷間こうかんよく言われていたので、大学の就職課にも協力をお願いした。

そんな中、大学からの紹介で某私立女子高校から話があったが、結局のところ、辞退させていただくことになった。ちなみに、その女子高は偏差値もかなり低く、課題の多い学校であった。私が「どこでもいいから」と依頼していたこともあり、紹介していただいた就職課の大物先生〈注1〉は大変なご立腹で、私の尊敬するゼミの指導教授にまでクレームをつけられた程であった。いずれにせよ、私はかくして就職浪人の身となった。

そして翌年6月の父の他界と相まって、さすがに性根を入れ替えて真剣勝負で臨まざるを得ない状況へと追い込まれていった。午前中はバイト、午後はその足で図書館、そんな繰り返しの中で、ようやく東京都の教員に合格することができた。この頃の受験倍率は、私が受験した「高校・社会」が他教科に抜きんでて一番倍率が高く、加えて、丙午ひのえうまの影響で採用数もかなり抑え込まれていたこととも重なって、かなりの狭き門〈注2〉となっていた。

さすがに、これ以上浪人生活は続けられない。万が一のことも考えて、東京都以外にも、長野県と愛知県にも出願していた。長野県は地元ではあるが、”田舎臭さ”が当時の私には性に合わず、丁度一次試験日の時にたまたま台風が接近していたこともあり、それを口実に受験そのものを放棄した。

一方、愛知県は地元と隣接し、中部地方最大の都市、名古屋を擁することから受験し最終合格まで行った。3月下旬、その愛知県の配属予定先の高校の校長先生から電話がかかってきた。「あなたに、本校の教員として、4月より来てもらうことになった。ついては、本人確認と書類手続き等があるので、いついつ来てほしい」というものであった。