終章

なお、戊辰戦争では、庄内藩も会津藩と共に戦い、降伏したのは会津藩より数日遅かった。しかし、庄内藩は殉教者にはなれなかった。

庄内藩には、戦闘に伴って会津藩で起こったような涙を催させる出来事がなかった、あるいは戦後の藩への新政府からの処分が寛大なものであった、ということがあろう。が、それ以上に、籠城した会津藩とは対照的に庄内藩は他藩の領内を席巻して奮闘し、その多くが勝ち戦であった、ということがあるのであろう。庄内藩にはあまり被害者意識がなかったのではないかということである。

このことは、鶴岡市の戊辰戦争150年の迎え方にも表れている。この150年の年に会津若松市の駅など各所で見た幟には「戊辰150年『義』の想いつなげ未来へ」とあった。これに対し、その後鶴岡を訪れた時鶴岡駅で見た幟に記されていたのは、なんと「明治150年やまがた庄内西郷隆盛ゆかりの地」であった。

ぶん殴った相手を、後で多少頭を撫ぜてくれたからといって、有難がるのも不思議であるが、西郷にはそれだけの魅力があったということであろうか。

薩長2藩ならぬ米中2国が世界をあらぬ方向に引きずって行きかねない時代にあって、日本人は世界の人々から、「お! 日本人!」と感嘆され、あるいは「日本人の意見を聞いてみたい」、「日本人の知恵を借りよう」などと言われていくのであろうか。

追記1 転封

奥羽越での戦争が終わって奥羽越各藩が処罰された時、会津藩が極寒の辺地へ「一藩配流」となった他は、結果的には減封はあっても転封となった藩はなかった。このため、戊辰戦争での転封としては、400万石から70万石に減封されて江戸から駿府に移ることになった徳川宗家とこの会津藩だけが記憶されることになった。

しかし、この時期実際には他にも転封があったのである。なぜか。

徳川宗家が駿河・遠江などに70万石を与えられた時、そこは無主の土地であったわけではない。先任の藩主たちが城や陣屋を構え、その土地を領有していたのである。徳川宗家にその土地を与えるには、新政府として彼らを追い出す必要があった。それまでの領主たちに転封を命じる必要があったのである。

かくして旧領を追われた大名とその移転先、さらには移転先での新藩名は次の通りである。なお、移転先は全て現在の千葉県内である。

浜松藩 6万石 居城 現浜松市 井上正直 移転先 市原市 鶴舞藩

沼津藩 5〃 〃 現沼津市 水野忠敬 〃 市原市 菊間藩

掛川藩 5〃 〃 現掛川市 太田資美 〃 山武市 松尾藩

田中藩 4〃 〃 現藤枝市 本多正訥 〃 館山市 長尾藩

横須賀藩 3.5〃 〃 現掛川市 西尾忠篤 〃 鴨川市 花房藩

小島藩 1〃 陣屋 現静岡市 松平信敏 〃 木更津市 桜井藩

相良藩 1〃 〃 現牧之原市 田沼意尊 〃 富津市 小久保藩