箱館戦争が終結した後の1869年6月、戊辰戦争での戦功に対する褒賞、賞典禄、の授与、言い換えると旧幕府や敵対諸藩から奪った「分捕品」の分配、が次のように行われた。これを見ても肥前藩の戦功が薩長土と共に四指に折られるほど評価されていたわけではないことが明らかである。
賞典禄
藩では
10万石 鹿児島藩、山口藩
4万石 高知藩
3万石 大村藩、松代藩、大垣藩、佐土原藩、鳥取藩
2.3万石 津藩
2万石 佐賀藩、岡山藩、彦根藩、久保田藩、松前藩
個人では旧薩摩藩の西郷隆盛2千石、大久保利通1.8千石、小松帯刀・吉井友実・伊地知正治・岩下方平1千石、大山綱良8百石、黒田清隆7百石、旧長州藩の木戸孝允・広沢真臣1.8千石、大村益次郎1.5千石、山縣有朋・前原一誠・山田顕義6百石、木梨精一郎・寺島秋介4.5百石、旧土佐藩 板垣退助・後藤象二郎1千石
個人での旧肥前藩士の最高額は、前山清一郎の4.5百石であった。
それでも、肥前藩の名が薩長土と共に明治維新に大きな役割を果たした藩として挙げられるについては、戊辰戦争そのものよりも、戦後、必要とされる人材を新政府に供給したことによるところが大きかった。
明治の元勲の長州藩の誰であったかが、「佐賀には林がある」と言ったというのを何かで読んだことがあるが、「林」とは、「人材」を切り出す林という意味であろう。幕末期の肥前藩は、地理的にも当時の唯一の開港場である長崎に近く、また福岡藩と共に幕府から長崎の警備を命じられていた。
さらに当時の肥前藩主鍋島直正は、このような環境の下で、西洋の文物に対して開明的であり、藩士の教育にも熱心であった。東北各県の県史や市史を見ていると、戊辰戦争での東北諸藩の立ち位置に関して、「僻遠の地にあって諸情勢に疎かった」といった文言が見られるが、確かにその要因は大きかったであろう。
「諸情勢」には、当時の日本の置かれていた国際情勢から直近の京都での政治情勢まであった。