東洋的ギリシャ人とでも呼べるような、深い精神を宿した一冊の詩集のページをめくってみた。そして今吹いている風は、太古から吹いていたように思えてきた。この透明な風。自然は何かを語りかけてくれている。
何の根拠もないけれど、人間はこの太古から吹く風に守られて生きてきたのかもしれないと思った。遙か遠い昔から吹き続けている優しい風。もしかしたら私たちは無限に広がる宇宙空間を旅しているのかもしれない。そしてこの風は永遠と呼べるものかもしれないとも思った。
しばらく目をつぶり、この風の中に私はいた。今度は一枚の絵を思い浮かべた。絵と言っても、A3のカラーコピーの一枚の紙に過ぎないのだが……。
ロシアの画家、イワン・シーシキンの「ペテルホフのモルドヴィノワ伯爵夫人の森で」この絵に出会ったのは図書館の一冊の画集だった。衝撃が走った。行ったこともない、一八九一年のロシアの森の中に、私もいたことがあるような気がしたから。今度はこの絵を眺めた。エゾマツの森の中で、不思議さが漂う老人の傍に、私も一緒に並んで佇んでいるような気がするのだから。
金色の木洩れ日が、まるで天からの愛の光として降り注がれているような……。そんなことを思わせる荘厳なものが漂う絵。すべての樹々が美しい秩序で、何かを奏でるように、天空に向かってそびえている。
風と光と色彩のシンフォニー。こんなたわいもない一時は、もう二度と訪れることがないかもしれない、私にとってかけがえのない一時のようでもあった。
明日、こんな風が吹くとは限らない。青空も今日は深く紺碧だけど、明日は白い雲が浮かんでいるかもしれない。空は刻々と色も形も変化する。
私は、「永遠の今」を生きている気がした。
そんなふうに感じられるようになったのは、私のこれまでの様々な経験のせいかもしれないと思った。