「大人の発達障害」なんて言い訳だ

最近、なんとなく生きづらいと感じている大人たちが、よくよく調べてみると実は発達障害だった、といったケースが増えているそうです。一言で「発達障害」といっても、その内容は実に多種多彩。

たとえば、「アスペルガー」などに代表される「ASD(自閉症スペクトラム障害)」から、「注意欠如・多動性障害」と言われる「ADHD」、それに「学習障害」などの「LD」などに細分化されて、それぞれに治療が行われています。

それぞれの特徴と違いを見ていくと、ASDは対人関係の構築や社会的なコミュニケーションを取ることが難しいという特徴があり、ADHDは集中して何かに取り組むことが難しかったり、思いついたら衝動的に行動してしまったりします。一方の「LD」は、全般的な知的発達に遅れがないものの、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算・推論する」といった特定の能力に困難が生じるケースなのだとか。

昔はこのような細分化された定義がなく、知的障害や精神障害と混同されていたり、逆に知能が高いぶん病気とは認識されずに普通の人と同じ生活を強いられたりしていました。近年に研究が進んだことで、今まで「なんとなく人と違う」「なんとなく生きづらい」と感じてきた大人たちが、実は「発達障害」という「病気」だったと判明しているのだそうです。

しかし、私はこの「大人の発達障害」というものの定義には少なからず誤解があると感じています。私にも記憶がありますが、大学院などで研究に携わっていると、目の前に存在しているものをついつい分類して認識したくなるものです。

たとえばこのような「発達障害」の場合、多少の生きづらさを感じながら生きてきたとしても、最終的には成長して大人になり、社会生活を送ることができているという人がほとんどです。つまりこれはいわゆる知的障害や精神障害などとは異なる症状であることに異論はないでしょう。とはいえ、それらをことさらに「病気」として分類する必要があるのでしょうか。

「人と違う」「生きづらい」のは、何も発達障害の人たちだけに限ったことではないだろうと私は感じます。私たちは誰でも「人と違う」ものですし、仕事や対人関係などの面で「理解されない」「生きづらい」と感じることも少なくありません。

つまりそれは、多かれ少なかれ人それぞれ異なる「傾向」や「癖」であり「性格」といったものなのではないかと思うのです。それをわざわざ「発達障害」と定義してしまうのは、単なる学者の趣味か精神科医の患者の裾野を広げるための方策、あるいは甘やかしのような気がしてなりません。

軍部によるクーデターが勃発したミャンマーをはじめ、内戦が続くアフリカの国々や中国による弾圧が続く新疆ウイグル自治区など、世の中には、もっと厳しい環境に直面している人もたくさんいます。その点、日本はとても平和です。

大人なら多少の生きづらさくらいは当然のことと覚悟して、もっと前向きに、たくましく、自分の人生を楽しんでほしいと感じます。