さらに歩くと阿武隈川に出、その土手を歩く。川幅は広く満々と水を湛え、緩やかに流れている。小さな商店街のある槻木地区を過ぎ、阿武隈川に流れ込む白石川を渡れば、船岡地区である。
道の遥か前方を船岡城址公園の舘山が遮っている。船岡駅前を過ぎる。船岡の館をイメージしたと思われる駅舎の外観は秀逸である。
城址のほうに歩く。城址の「城」は古い時代のもので、意広のいた館とは異なるようである。道はすぐに古い城下の屋敷街の上品な雰囲気を漂わせ始める。突き当たりの小山の裾に船岡城址の標識があり、道を隔てて町の資料館がある。資料館は伊達政宗関係の展示が多い。
しかし今日はそれには興味がない。館員に白鳥事件の資料はないかと聞いてみたが、事件について詳しい風ではなかった。二階に少しその関係の展示があること、また意広の館は城址の三の丸にあったことを聞いて二階に上がる。
確かに一こまだけ事件の小さな説明板があったが、「事件に関与した家中3名が斬首、意広が引責切腹」とあるだけで、家老や小松あるいは玉蔵は名前も出て来ず、説明全体も恨みがましいものではなく、淡々としたものであった。あまり情報もなく、取り敢えず意広の菩提寺に向かった。
途中に白鳥神社があって、その本殿の前に意広の胸像を見たのが、唯一本日の収穫といえば収穫であった。玉蔵の代わりにその首を差し出したとされる家老の名が各種の資料に全く記されていないのは不思議であり、そのため身代わりとなったことの真実性にも疑問符が付くのは残念である。
■松前藩
戊辰戦争は、会津藩が降伏しても、まだ箱館戦争と続き、全てが終わるのは、1869年5月の箱館五稜郭の開城によってである。
箱館戦争では、戦後榎本武揚らが投獄されたが、数年で釈放され、その後新政府で栄進したことから、反逆首謀者の処刑のような暗い事件はなく終わったかのように思いがちである。しかし、陰惨な事件はやはり起こっていた。戦場となった松前藩では、戦後直ちに家臣中の戦争非協力者や領民中の榎本軍への協力者の捜索が始まった。
そして5、6の2カ月で250名余が逮捕された。獄舎が不足したため、逮捕された多くは、路上に縛られたまま風雨を構わず放置されたという。6月から9月にかけて彼らの裁判があった。『松前町史』によると、逮捕者中有罪とされた者は107名で、町内引廻し胴斬の上梟首が4名、町内引廻し刎首の上梟首が12名、刎首が8名、他は押込、渡海、越山などとなっている。渡海や越山は追放のことであろうか。処刑は建石野首切沢の処刑場で行われた。