八月〜十月
俺はこれまで知らない女にナンパ目的で声をかけた経験はない。失敗したら恥ずかしいし、自分の見た目にあまり自信がないからだ。それなのにこんなミッションを敢行するハメになるとは。こんなことなら練習しておけば良かった、としょうもないことを考えながら、とりあえずカウンターでコーヒーを注文して、彼女が座っている大テーブル席の斜め前に腰をおろす。なるべくさりげなく彼女を観察する。
ヘッドホンで音楽を聴きながら本を読んでいる。髪は肩くらいまでの長さである。ボブって言うのだろうか。全体的に金色だが、よく見ると数ヶ所ピンクのメッシュが入っている。化粧は濃い、というか派手。両耳に十字架のピアス。首から上に比べると着ているものは普通で、黒のカットソーに薄手のパーカーを羽織り、下はジーパンだ。しかし服装の普通さを差し引いても「声をかけるな」という雰囲気が全身から漂う。
コーヒーをすすりながら、どうしようかと思案しながら彼女——ヒカルの読んでいる本を見た。J・R・R・トールキンの『指輪物語』の文庫本だった。映画化もされているファンタジーの古典だが『指輪物語』を本で読んでいる人は、俺の知り合いにはいない。若い子がこの本を読んでいるのは珍しい光景である。ささやかだけど糸口が見えてきた。
一時間後、予定通り駅で桃と落ち合う。
「どうだった?」
「さすがにいきなりは声はかけられないよ」
「そうか、ダメか」
落胆する桃に慌てて、
「あ、でも待ってくれ。今日は話しかけられなかったけど、ちょっと考えがある」
と続ける。
「また彼女がこのカフェに来るタイミングを、事前に教えてもらうことってできるか?」
「難しいな。今日はたまたま分かっていたけれど」
「どうして今日は分かったんだ?」
「おとといの夜、たまたま外でヒカルがここの店に電話しているのを聞いたんだ。本を置き忘れたから、金曜日取りに行くまで預かっていて欲しいって」
「なるほど。彼女はわりと頻繁にここに来ているのか?」
「常に彼女の様子を探っているわけではないが、週一回は来ているな。だいたい金曜日の夕方だ」
「俺が出てくるとき彼女はまだいたぞ。いったい何時くらいまでいるんだ?」
「まちまちだが、七時過ぎまでは確実にいるな。八時近くまでいることもある」
それだったら、会社帰りに寄っても間に合うな。仕事が終わらない日は無理だが、当分金曜日は早めに帰れるよう頑張ろう。
「それで、考えというのは?」