「リオ五輪における吉田沙保里の金メダル」は、これらの諸要素が調和・収斂・爆発した時に初めて現実となるものであり、逆に、金メダルが取れなかったという事実は、伸び過ぎた「兵站」のどこかが綻んだ事を意味する。
長い間彼女は、2位は意味を持たない「絶対1位」の世界に生きていた。その世界には、明確な採点ルールがあり、決められた時間制限があり、ごくまれな同点同一メダルを除くと、必ず勝者・敗者が決まる。いわば、単線的世界である。
これに対して、この世の中には、別の世界もある。「相対1位」世界である。そこには、明確な採点ルールもなければ、決められた時間制限もない。従って、そこでは勝者・敗者は決まらない。いわば複線的世界である。
一見、両者は、この世界で共存するかのように見える。しかし、現実を見て欲しい。やはり、本質的には、この世は、競争原理に貫かれた単線的社会なのだと私は考える。確かに、色々な道はある。
しかし、選んだ道で勝ち残るには、(仮に瞬間最大風速だとしても)、競争に勝たなければならない。
受験の弊害が叫ばれて久しいが、学校側から見れば、良質の教育水準を保つためには、1番の成績を取った受験者から定員最後の成績で滑り込んだ受験者(50人クラスが3クラスなら150番)までを合格とすることは、当然のことである。この「足切り」のお蔭で教育水準は保たれているのだ。サービスの受給対象を選抜するという受験と、世界で最も優れたアスリートに称号を授けるオリンピックとは、確かに性格は異なるが、「必ず順位は付く」、「勝者・敗者が必ず生まれる」という点では、共通している。