Ⅲ 小さな薔薇

彼のワインはすでに二杯目だった。彼は私と一晩過ごしたいようだ。彼の手がニットの上から私の乳首を見つけると彼は私に寄り添う。小さな呻きが私から漏れると彼は笑顔で反応する。まずい、このまま進む勇気はとてもなかった。

「日本人なの」

これくらいはフランス語で言える。

「君が日本人なのは知っているよ」

ああ、そういうことが言いたいんじゃないのよ。私もボキャブラリーが少ないな。私は自分の膝を両手でたたきながら「私は日本人なのよ!」を繰り返した。彼も「知っているよ、君が日本人だってことは」を繰り返した。私の根負けだった。そこで私は正直に言った。

「私は若くないのよ」

「君が若くないだって? そうかな? 僕も! 僕も若くないんだよ!」

彼は笑顔で返してくる始末で私の意向は通じなかった。さらに私は思い切って言う。

「私は上手に遊べないわ。そういうことは上手じゃないの」

すると彼は、それまで私の肩越しに片手を置き、椅子の背に凭れていたのだが、突如その腕を伸ばして私の口を覆った。鼻だけはかろうじて外されていたけれど、私は肩ごと彼に包まれるかたちで顔の下半分を覆われてしまった。びっくりして思わずびくんと身体が動き、声を出そうとするも彼の手が強く私の顔を押さえつけている。彼が怖い顔をして、「しっ! 黙って。何も言うんじゃない」と言いながら厳しい視線で周囲をうかがっている。私は何か危ない台詞を言ってしまった? そんな大きな声で言ったわけじゃないわ。

近くに怪しげな男の人でもいたのだろうか。彼はダメだの視線を全開にしている。日本と違ってヨーロッパでは女性が危険な目に遭うことはたやすいとはいえ、今夜私と過ごそうとしているのは自分じゃないの? でも、私を危険から守ろうとしてくれているのは、本能でわかったので私は彼に手のさるぐつわをされたまま、目を丸くさせながら彼の目を見て首を上下に二回振り、「わかった、もうそういうこと言わない」と目で訴えた。彼への信頼が生まれるアクシデントだった。彼がゆっくりと私の顔から手を離し、安堵のため息をついている。かなり焦っていたのだろう。私はといえば、しばらく黙って俯くしかなかった。

思えば密度の濃い夜だが、そろそろこの店もクローズだ。彼が引き上げよう、と支払いを済ませチップの二ユーロコインを丸テーブルの上にこちりと置いた。見慣れた銀の硬貨がなぜかいつもより美しく見えた。

ユーロ硬貨は教会の色秋深し