そうして次の訪問までにこの木と種子を集めさせ、持ち出すことを確約すべく許可の文書をビザガウムから取り付けた。夏には気温摂氏40度を軽く超え、世界一の多雨地帯に雨季が来ると大河ブラマプトラは増水、アッサム平原に洪水を引き起こし、マラリア蚊の恐怖から逃れることは難しい。馴れぬスコットランド人には過酷ともいえる気候風土である。
兄のロバートは、このアッサム奥地での歴史的な出会いの翌1824年に思い半ば30代の若さで死亡する。弟のチャールズは、ラングプルでビルマとの交戦が始まったため、兄に代わりその木の調達を首長ビザガウムに再要請。兄との約束を守り、彼から待望の木と種が彼の元に届けられた。そしてアッサム植民地弁務官であるデヴィッド・スコット大尉に一部を送り、残りの木や種は、弟のチャールズ自身のサディアの庭に植えられた。
翌年スコットは、別に自らが発見したマニプール産(アッサムの南)の茶樹らしき標品をインド政府主席書記官G・スウィントンを通じ、カルカッタ植物園ウォルリッチ博士に送り、茶であるとの確信を持って鑑定を依頼した。結果、博士からは「Camellia」即ち「ただのツバキ。本物の茶ではない」との宣告が下った。
それまでは、中国産で葉が小さな中国種こそが茶であると考えられていたことから、新たに発見された葉が大きなアッサム種茶樹は、茶と同一種とは認定されなかったものと考えられる。
一方でほかの専門家たちの中には、スコット大尉から持ち込まれた標品の木とブルース兄弟が発見したアッサム産茶樹とは異なるものであったのだろうと考える者もいた。結局このボタンの掛け違いがその後長い間、真のアッサム種同定作業にブレーキを掛け、丸10年間も遅らせる皮肉な結果をもたらしてしまった。
その間大英帝国への愛国心と功名心溢れる数多くの発見者たちが登場し、紆余曲折のドラマが繰り広げられる。