小栗上野介

旧幕府勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗上野介は、大坂から帰った徳川慶喜に抗戦を強く進言するも容れられず、罷免され、3月には知行地の上州権田村に引き籠った。

それから間もない閏4月6日、小栗は東山道先鋒総督軍に、近くの烏川の川原で斬殺された。養子の又一も翌日高崎で斬られ、他に家来数人も殺された。

小栗の追討は総督軍から高崎、安中、吉井の3藩に命じられた。その理由は、小栗が権田に陣屋などを厳重に構え砲台まで築いて反逆を企てているというものであった。

3藩は、まず疑義を糺すべく兵を権田に送ったが、言われるような形跡はなかった。このため又一を連れて高崎に戻り、総督軍に小栗には反逆の意図はないと報告した。

しかし、総督軍の軍監原保太郎と豊永貫一郎は、「3藩に異心あり」といきり立ち、自ら3藩兵を指揮して権田に入り、小栗を捕らえ、何の詮議もなく斬首したものである。

小栗については、旧幕府内の開明派、幕府を超えて日本を見ていた一人として、その死を悼む者が少なくなかった。

1860年、万延元年、新見豊前守正興を正使とする遣米使節の一行が日米修好通商条約の批准書交換のため米国を訪れた際、小栗も監察としてこれに加わり、米国の進んだ事物を見学して帰国した。帰ると、当時強かった攘夷の風潮に、他の団員が口を噤んでいる中で、一人、外国を模範として我が国の近代化を図る必要があると公言実行し、その動きの一つとして、当時進められつつあった横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠)の建設に、幕府財政が困窮する中で、勘定奉行として多大な貢献をした。