施設でのそんな日々の流れは、とても緩慢で一年先が果てしなく遠くに思われた。それでも一日一日を耐え凌いで、過ぎ越していくうちに、九ヶ月を過ぎる頃から、日々の流れが急に早くなった。私は施設の生活に順応して回復のペースに乗ったのだ。
そして、二年目、三年目と私は施設の生活に没頭した。過酷なまでに激しい矯正生活だった。私はそれが自己を失うことであることはわかっていたが、中毒から回復するためには、それが必要なことを認めていた。勿論、私の脳の障害はそんな生活の中で、ゆっくりとしか回復しなかった。
それに飲酒と放浪で傷んだ体は、心臓、肝臓、腎臓、……と、様々の臓器の障害を併発していた。ことに酒を止めるとアレルギー反応が三倍になるとされ、一年目に引いた風邪が喘息となり、肺気腫とも合併して、その症状(COPD)は三年を過ぎても取れなかった。年中、咳き込んでいたのだ。医者は怪訝な顔をして、肋膜炎でもしたのか、と私に問うて、私の肺がひどく傷んでいると言った。
それにその頃はまだ、雲の上を歩いているような足取りの覚束なさが残っていて、いつになったら治るのか、ともすれば希望を失いそうになった。
それでも、施設に来て四年になろうとする頃、私はそんな症状を押して社会復帰して、プールの清掃の仕事に就いた。そこで私は肺を浸潤される感触に戦くと共に、復帰する社会そのものに戦いた。それでも、祈りながら、一日一日を凌いでいくうちに、半年ほどで不思議に胸苦しさが取れ、社会に対する恐怖も消えていた。
そして、振り返って、自分が絶望と罪の意識から孤独になって社会を恐れ、その恐れを解消するために酒に溺れ、身も心も壊してきたことを思うのだった。そうこうして、施設にいて飲まないでいる年月が、六年を数える頃になって、中毒の症状はいつしか薄らいでいった。そこには覚束ないながらも救われて、不思議に生き残った自分がいた。
もっとも、この病は不治の病であり、回復することはあっても、完治することはないという。その後遺症は私の存在の奥底に突き刺さった「肉中のトゲ」のように不安な苛立ちとなって、私の存在から消えようとはしなかった。