Ⅲ
葬儀への参列をやめた時は単に気が進まないので遠慮したことにしておこうという意識しかなかったのだが、後々来栖はこのことで繰り返し思い悩むことになった。どうも自分には普通一般に人間に備わっているべき何らかの感情が一部欠落していて、他者への思いが心底から湧き起こってこないタイプではないかと考えてしまう。
ことに亡くなった人を悼む思いである。思いが強ければ何とか線香の一本ぐらいはあげてから帰ろうとするのが一般常識だとは分かっている。おまけに、近しい人に対しても全く疎遠な人に対しても、思い入れといった感情に強弱の差をつけることもできない。
このことについては思い当たることがあり、今回のような身の処し方を最近の一〇年余りで何回か繰り返してきたのではないかと考え込んでしまった。
今回のことも徐々に自分の心がかたくなになっていく兆候として受けとめてしまう。この思いの無さというか、年を重ねるにつれての心のかたくなさというものに自分でも気づき、しかも心の内でそのような自分自身に嫌悪感を抱くことがよくあった。その傾向が強まるにつれ、自分自身のそのようなありようにおののくようなところにまで行き着いてしまう。
あまりにも死者に対しての思いが出てこないのだ。
生きている人間としての自分は欠落人間で、自らの品性も深刻なところにまで堕ちてきていると考えることもあった。百合への思いというものが心中に芽生えてこないことをはっきりと確信してしまった時など、自分自身に対しても何か空恐ろしさのようなものを覚えてしまうほどだった。