バルちゃんの本名は小野晴海(おのはるみ)という。基の仕事仲間だったのだが、いつの間にか佑子とも仲が良くなった。佑子たちと同年の、小柄な女性である。

少し前、女どうし二人でランチした時、この駅のベンチでやっと一人の人間になれたんだ、と言っていたけれど、その後ろ側にある彼女の思いは、まだ佑子には分かり切れるものでもない。

基は、ゆっくり笑顔を作る。

「またさ、練習見に行かせてくれよ」

少し間をあけて、前を向いたままアクセルを踏み込む。佑子と基との付き合いは長い。元々は葉山高校ラグビー部の部員とマネージャーだっただけだが、一緒にバンド活動もやった。

どちらかというと堅実な佑子が現役で進学した大学に、高校時代にはまったく勉強しなかった基は一年遅れで入学した。合格した時には大声で「奇跡だぁ!」とわめいていたけれど、浪人中には驚異的な集中力を発揮したのだろう。

目標を見定めて熱中すると強い。ラグビー部でもそうだった。おそらく、本人以上に、母校の先生方も奇跡だと思っていただろう。

大学生の頃、いつの間にか付き合うようになったけれど、佑子としても、洗練とかオシャレとかがまったく似合わない基は、一緒にいても疲れない相手だったし、双方の両親も、その成り行きを受け入れてくれた。

基は学生時代にアルバイトで入った雑誌の編集部にいつの間にか居つき、ライターの下働きのような仕事を始めた。佑子は専攻した西洋史学を生かしたい、と、県立高校の教職を目指したというわけだ。

ただし、と基の父親からは釘を刺されていた。片やフリーの立場であり、片や臨時任用職員では一人前とは言えまい、と。どちらかが定職に就くまでは結婚はダメだ。

そのくせ、基の父が昨年の春に定年退職を迎えると、義母までが仕事を辞めてしまって山梨県の北部に土地を買い、引っ越してしまった。

「畑借りて、作務衣着て、手打ち蕎麦の店でもやるのか? それとも、オシャレなカフェにする? うひゃー」

基はそんなセリフを吐いてにやにや笑っていたけれど、その時にあっさりと横須賀の住まいを基に譲った。二人が今住んでいるのは、その古くて広い家だ。

ようやく佑子が、公務員というこれ以上ない堅い職業に就いたのだから、一応ハードルはなくなった。

けれども、結婚という言葉は、二人のどちらからもまだ出ていない。