海辺の学校で
数段のコンクリートの階段を上がると、視界が一気に開けた。
相模湾が広がって、左手には遠く江の島が見える。正面は水平線上に伊豆大島がかすんでいて、右手は海水浴場の向こうに漁港の堤防。背後にはバイパスを行き過ぎるクルマの走行音がひっきりなしだ。
「広いねぇ!」
解放感に、思わずつぶやきがもれた。
傍らの男子生徒は無言でしゃがみ込み、ジョギングシューズの紐を結び直す。
「じゃあ、先生、行ってくる」
右頬にうっすらと笑みを浮かべながら、彼は佑子を見上げる。無言のまま頷くと、一段飛ばしで階段を駆け降り、彼は砂浜に足を踏み入れる。夏を迎える前の、穏やかな風の吹く海岸を、白いTシャツの背中が瞬く間に遠ざかって行った。彼は、県立大磯東高校ラグビー部の、たった一人の部員だ。
佑子はこの春、ようやく念願かなって県立高校の教員に正式採用され、大磯東高校に赴任した。大学を卒業してから三年間、臨時任用職員として境南工科高校という実業系の高校に勤務した。歴史学科出身の社会科教員としては、ちょっと肩身の狭いところもなくはなかったけれど、同じ教科に頼りになる先輩女性教員もいて、その分仕事に夢中になった時期もあった。そのせいかどうか、採用試験に失敗することもあったけれど、意味のある三年間だったと思っている。
住まいとはちょっと距離のある大磯町の学校に配属されたのは意外だったけれど、最初の校長面接ではラグビー部の顧問を希望した。自分自身の高校時代にはラグビー部のマネージャーだったからだが、大磯東高校のラグビー部は、部員が一人だけになってしまっていることを、その時には知らなかった。
左手の、平塚との境界にもなっている花水川の河口までで引き返してきた部員の、新二年生の足立善彦くんは、横顔を見せて砂浜を走る。逆側の漁港の岸壁までを二往復するのが今日の練習メニューだ。ひと汗かいておくという感じだが、彼はこの後、体育館で筋力トレーニングに励む。たった一人のラグビー部。
この追い詰められたような状況を、彼はその内面でどんな風に消化しようとしているんだろう。不安、という言葉だけでは言い表せない感情が、佑子の胸の内にこみあげてくる。後輩の新一年生にも声はかけたのだけれど、どうにもおとなしい生徒が多い大磯東高校だからなのか、入部希望者が集まらないまま新学期も一カ月が過ぎた。
防砂林に沿う歩道を進みながら、足立くんは無言のまま深呼吸を繰り返す。
肩を並べて歩く佑子は、彼の真摯さや生真面目さを思う。新三年生にはラグビー部員がいない。足立くんはきっと、この春に卒業した先輩たちへの感謝や義理を感じながら、たった一人のラグビー部を続けている。最初に会った時の、照れくさそうな微笑みにどう応えてあげればいいのだろう、と苦みを伴った感情が胸をよぎることが日常になってしまっていた。