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出産が施設化した時代の無介助分娩(戦後から1980年代まで)

日本の出産は、戦後GHQの指導のもとに出産場所が自宅から病産院へ移行し大きく変化しました。

そして、「産婆」は保健婦助産婦看護婦法により昭和23年から名称が「助産婦」と変更されました(なお、「助産婦」の名称は、2002年にさらに「助産師」へと変更されており、本書では、以下「助産師」に統一しています)。

では、出産の施設化により、出産場所や立会い者、そして無介助分娩はどのように変化し、無介助分娩にはどのような調査が行われていたでしょうか。

人口動態統計によれば、調査開始の1947年に97.6%を占めていた「自宅・その他(「自宅」と「その他」の計)」の場所での出生は、1960年に49.9%と半数となり、この年を境に施設の出生と「自宅・その他」の出生割合が逆転し、その後「病産院(「病院」と「診療所」の計)」の出生が主流となり1980年には1%を切り0.5%となりました。

反対に、1950年にわずか4.0%であった「病産院」の出生は、1960年に41.5%と半数近くになり、1980年には95.7%と、ほとんどを占めるようになりました。

出生場所が施設へと移行した当初、「病産院」の出生の増加と同時に「助産所」の出生も増加し、1950年に0.5%であった「助産所」の出生は1965年に12.9%となりましたが、この年をピークに減少し、1980年には3.8%まで減少しています(図1)。

(図1)

出生時の立会い者は「医師」、「助産師」、「その他」に分類されていますが、出生の場所が自宅から施設へ移行するに伴い、立会い者も変化しました。

1947年に92.1%と大半を占めていた「助産師」の立会いによる出生の割合は、1960年に56.1%と半数近くまで減少し、その後「医師」の立会いによる出生と逆転し、1980年には4.9%まで減少しています(図2)。

なお、統計上の数値を見ると、この間に分娩介助者が助産師から医師へと交代していったように見受けられます。しかし、出産場所が病産院へ移行した後も、実際の出産には助産師が中心に関わり、正常産は助産師が分娩介助を行っています。

出生に関するデータは「出生証明書」の記載をもとに算出されており、病産院の多くは助産師が分娩介助を行った場合でも、立会い者の欄には医師の名前が署名されているからです。

したがって、病産院で実際に助産師の行った分娩介助の件数は不明ですが、5%より多いことは明らかです。無介助分娩は、統計上、立会い者の「医師」、「助産師」、「その他」の内の「その他」に該当します。1947年の全出生に占める割合は4.33%で、その後、1960年1.96%、1975年に0.1%を切り0.04%に、そして1980年は0.03%まで減少しています(図2)。

(図2)

無介助分娩の戦後の各地の動向については、岩手県の1960年から1985年までの出産立会い者の年次推移と、奈良県の1953年と1962年の地域ごとの立会い者別出生数が報告されています。

どちらも都市部より農山漁村で無介助分娩の減少に遅れが生じたことが明らかとなっています。大正から昭和初期に続き、戦後、出産が施設化したこの時期も、無介助分娩は僻地に多かったのです。