JRの改札口まで一緒に歩き乗り場が違う二人は、そこで手を振って別れた。楽しかった。いつもの夜とは違う。タケルは部屋に帰ることが苦痛ではないことに気が付いた。久しぶりに食べ物の味を感じた。いつもは味も匂いもしなかった。

大学時代の気楽に笑っていた自分、あの事故の前の自分を取り戻したような気がした。いつもと同じ路線の七秒ほどの短いトンネルは前の無機質な自分で、これを抜けたら違う自分になれるのではないかと思えた。自分の笑い声が今も耳にこだまする。

部屋の鍵を開ける手も軽やかで、酒のせいだろうか。このまま何もせずに寝てしまおう。スーツだけは消臭スプレーをかけてベランダに出した。あとはスマホの充電だけしたら風呂に入ろう。

タケルの気分は少し高揚していた。いろいろと楽しかった大学の頃のスマホの画像を探してみた。どれもこれも無邪気に笑っている。この後に生死の境をさまようような事故に遭うなんて想像もできなかった。

下腹部と腰の後ろにかぎ状の縫合の傷跡がある。痩せたタケルの白い体が湯気の向こうの鏡に映る。髪を洗うとたばこの匂いが取れた。左耳の上の髪をかきあげると、生え際に沿って同じく縫合した傷跡がある。どんなふうに手術されたのだろうか。

確かなのは事故に遭い、大ケガを負って三か月意識不明だった事。その後、無事に生還してここにこうして生きているということだった。それだけでいいじゃないか。信号のない横断歩道を暗闇から飛び出した自分が悪いのだから。石鹸の泡の中に、またいつものようにすべての疑問を包んで洗い流した。

疲れていたのか、よほど楽しかったのか、珍しく何の夢を見ることもなく朝が来た。今日は昼からの出社でよかった。松永さんが久しぶりに来てくれるのでゆっくりと午前中は過ごせるから、クリーニングに持って行ける時間があった。

昨夜会った浩介は、やっぱり大手企業の営業職なので仕立ての良いスーツを着ていた。

自分は量販店の安物だったので、いくらか貯金したお金で今度いいものを一着購入しようと思った。浩介と張り合うつもりはない、だがあまりに自分が薄っぺらでかわいそうだと思えたからだ。せめて、スーツを新調するお金くらいはある。大学入学とともに一人暮らしをしていたから生活は切り詰めていた。

母子家庭で母は看護師で忙しく仕事をしていた。できるだけ迷惑をかけないように自立するべく切り詰めた生活をしていたタケルは、母が交通事故の莫大な示談金を受け取っていたことなど知ることもなかった。金銭の動きはただの事故の処理ではない、過去に鴻池とタケルの母が同じ医療センターの研究所である実験的な医療行為に関わっていたことによる。

お互いに年齢を重ねても、名前や顔を忘れるはずはなかった。当時共通の秘密を抱えた者同士の再会はお互いの息子という共通項があった、それ故に一億円という莫大な金額が動いたことをタケルの母は口にすることができなかったのだ。

浩介ほどのイケメンだからこそ似合うのかもしれないが、このまま腐っておじいさんになってしまわないように、少しは自分の身の周りもかまうようにしようと考えた。このままでは女性不信のまま人生を終えてしまいそうで危険だと思っていたからだ。いつも同じスーツを着まわすのではなく、新しい洋服を買ったり、きちんと自炊もしたりしなければ。まずは自分を見つめなおす事が大事なのではないかと思った。