双頭の鷲は啼いたか
渇いた音が響く。まるで黒板に爪をたててひっかいたような音だ。
風船でできたドールのように、ふわっと女は倒れた。おびただしい血の海がまるで水銀をたらしたように、脈々と流れてくる。
女の横顔に流れる一筋の涙は断末魔のものなのか、そこには美しささえ感じられる。
そこにいる誰かは女を投げ出すでもなくお人形のように座らせる。そして何事もなかったかのように立ち去る、そっと。
「はっ!」
居眠りをしていたのか?
仕事中だったのに記憶がとんでいた。古谷タケルが我に返った時、彼は事務室のデスクに座っていた。誰もいなくてよかった。
二〇四〇年、大学入試制度も大きな変革を遂げながら二十年ほど過ぎていた。少子化の影響で塾も淘汰され、老舗や大手企業でも生き残るのは非常に難しくなっていた。
タケルは大手予備校のチーフだった。チーフというのはただの呼び名で、各校舎には校舎長の正社員が一人いるだけだ。その次の立場というだけで、タケルは今は契約社員だった。
まだ生徒が来る前の時間だった。生徒は早くても午後二時以後にしか来ない。だが、入試のこの時期は学校に行かなくてもいい場合もあるので、受験生が個別指導を取っていることがある。
あわてて机の上に置いた報告書の乱れを整えた。本当に一人だったか中腰で周りを見回した。
タケルは最近少し奇妙な夢に悩まされていた。それにしても断片的な、ひどく恐ろしい夢だった。一体何だったのだろう。いつもは夜、就寝時にしか見なかったのに。
雑務や面接、クレーム対応などに追われる毎日。校舎長はもう一校と兼任しているものだからあまり教室にいない。タケルの処理しなければならない仕事は山のようにある。仕事だからと割り切ってもかなり、ストレスがたまっている。とはいえ、これは酷い夢だった。
「チーフ、明日の夕方の永田先生の授業、高二の数学ですが、先生の実習が長くなりそうで京都に戻れないそうです。代打を探していますが」
秋元さんがタケルのところに、困り顔でやってきた。先生は大阪の大学の医学部に在学している。よくあること、いつものことだ。講師も学生だから、学業の都合や体調を理由に授業に入れない時もある。
「じゃあ、高校数学の得意な先生たちにメールで一斉送信してみて」
「わかりました」
夢からさめたあとの現実は、まるで何かのトレースのようなごく簡単な毎日のルーティンだった。時刻は一時すぎ。
女性のスタッフが二人出社してきて、毎日同じように慌ただしい日々だ。秋元さんは短期大学を卒業し、この仕事は二年目の二十二歳でタケルと同じ契約社員だった。
タケルは契約社員として講師バイトの延長で就職した時に、二年は契約社員でそのあと試験を受けるだけで正社員にしてもらえるという確約を貰っていた。就職活動がうまくいかずにへこんでいた時、今の上司の松永さんが同情して助け舟を出してくれたのだった。
秋元さんの場合は知らないが、女性なので契約のままなのだろうか。
だが、篠原さんときたら、四年制大学を卒業しているのに、全く仕事ができない。四月に配属されたが誰か他の人と変えて欲しかった。いや、むしろ、いない方がいいとタケルは思っていた。
「篠原さん、月報の発送用意はできましたか? 時間がないので急いでください」
また、のんびりと時間だけが過ぎていた。これもいつもの事だった。