死のことを習ってからにしてね
母が亡くなったあと、ようやく母の遺したものの整理を始める気持ちになったとき、一番はじめに手をつけたのは母のベッド周辺の整理だった。
よく本を読む人だったので、何冊かの本がいつも枕元や側に置かれていた。最晩年はほとんど神様や宇宙のこと、霊的世界のことが書かれたお気に入りの何冊かを繰り返し読んでいたようだった。新しい本は欲しがらなくなっていた。
それらの本の一番上に載っていたのは小さなお祈りの本だった。
「このお祈りを毎日読んでいたのね」
母の最期の祈り
そう思うと切なくて我知らず本を手にとってパラパラとページをめくった。
お祈りの言葉の横にはところどころ言葉の意味や解説らしいメモ書きが見つかった。そして空白のページに母の文字で別の祈りらしいものが書かれていた。
「我今日死せよと仰せあらば潔く死すべし。死すとも決して悔いることあらず」
達筆だった母のしっかりした文字で書かれたこの言葉を読んだとき、言いようのない衝撃で思わず母のベッドに座り込んでしまった。
母は毎晩この祈りの言葉を読んでいたのか。
毎日寝る前にお祈りをするのが母の習慣だった。「今日一日を感謝して眠りにつく」という母の習慣は私にも伝わっていた。だが、いつも眠くて、そそくさと「今日も一日、お守りをいただきありがとうございました」と超簡単な、祈りともいえぬ言葉をつぶやいて寝てしまう私と違い、母はいつもきちんと祈りをあげているようだった。
実際母の部屋から、就寝前いつも呟くような小さな声が聞こえてくるとき、そのような祈りをあげているのが伝わってきた。だが、いつごろからこの「死を喜んで受容する」祈りの言葉をあげていたのだろうか。気が付かなかった。
晩年の母にとって、死はそれだけ身近に迫ったものだったのだとあらためて思い、胸が詰まった。何気ない毎日を送りながら、これだけ死を近くに実感していたのかと思うと、そういう母の気持ちに配慮の足りなかった自分の至らなさが辛かった。
その反面、当然やってくる死をまっすぐに潔く受け入れようと準備していた母をあらためて「素晴らしいな」とも思い、誇りにも感じた。だが母は、いつ、どこからこの言葉を学んだのだろう。