第4章 フィオリーナからへロイーナへ
第一話 裏町
ふだん、この気味の悪いビルにいるのは、アントニオとカルロスの二人だけだった。カルロスは犬のとなりの部屋で、毎日コカインを吸っていた。コカインを吸わないと、気持ちが悪くなり、冷や汗(あせ)が出てじっとしていられなくなるのだった。コカインは、コカの木の葉二五〇キログラムから一キログラムしかとれない強力な麻薬だった。
カルロスは、コカインの白い粉を吸うところを人には決して見せなかったが、アントニオだけにはかくそうとしなかった。アントニオは、いつもじっと見ているだけだった。ふだんは何も言わないアントニオだったがその日は、コカインを吸い終わったカルロスにめずらしく、こう話しかけた。
「なあ、カルロス。お前は俺とちがって、まだ若いんだから、そんなことはやめて家族の所へ帰ったらどうだ。故郷があるんだろ。こんなことを続けていたら、そのうち、死体置き場に行くことになっちまうんだぞ」
故郷という言葉を聞いたカルロスの頭をよぎったのは、遠くに山脈の見える広い草原の風景だった。
「俺には帰る所なんかないよ。俺は自分の母親を刺(さ)したんだから」
「いったい何があったんだ?」
アントニオが聞いた。
「いつも誰かが俺を殺そうとしていると思っていた。部屋の中に知らない男が立っていたり、窓の外からのぞいたりしているのが見えた。怖くていつもびくびくしていた。だから、俺はナイフを手から放したことがなかったんだ。あの日、気が付いたらナイフが血まみれで、目の前に母親がいたんだ」
コカインのおかげで、さっきよりずっと楽になったカルロスは、うめくように答えた。
「お袋(ふくろ)さんを殺しちまったのか?」
「いいや。けがが治ってから、俺を探しに来たのを遠くから見た。あのときは、母親が生きていたことが本当にうれしかったよ。この俺が、神様にお礼を口走ったぐらいだったものな」