草のゆかり

光源氏は、北山で見かけた十歳くらいの美しい少女(後の紫の上)のことが忘れられない。

あの少女は、憧れの藤壺にとてもよく似ている。藤壺の姪に当たるとのことである。少女の母親はすでに亡く、少女は祖母に当たる尼君に養育されていた。

ところが、その尼君が亡くなって、少女の父である兵部卿宮が少女を自分の方に引き取る迎えをすぐにも出すと聞いた光源氏は、迎えが来る日の前日の夜更け、急いで少女のいる邸にかけつけた。

何も知らずに寝ている少女を抱き上げ、少女と乳母(めのと)の少納言とを車に乗せて、そのまま光源氏の自邸である二条院に連れ込んだ。

つまり、二人を「拉致」したのである。光源氏は、二、三日、参内もしないで、付き切りで少女の相手をする。

光源氏は、紫色の紙に「武蔵野といへばかこたれぬ」と書き、さらに歌を書いた。

光源氏「ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを」

(まだ根までしっかり見たわけではありませんが、武蔵野の露を分け入っても手にすることのできない草のゆかりであるあなたを、しみじみいとしく思います)

少女は、光源氏の見事な墨蹟を手に取って、じっと見つめている。少女にも書くように勧めるが、「まだよく書けません」と言うが、それでも筆をとって何かを書き、書き損なったと言って隠してしまった。

それを無理に見せさせると、

少女「かこつべきゆゑを知らねばおぼつかないかなる草のゆかりなるらん」

(どうして悩ましい気持ちになられるのか、よくわかりません。私は、どのような草のゆかりなのでしょうか)

少女は、光源氏の歌をじっと見つめていた。何かを考えている。自分は何のゆかりなのだろうか。しかし、わからない。光源氏に尋ねることのはばかられる問題であるらしい。そう感じ取って、少女は隠そうとしたのである。

物語の読者は、少女が「藤壺のゆかり」、すなわち藤壺の形代であることを知っているが、少女は知らない。

少女は、これ以後何年もの間、自分が藤壺の形代であることを知らないまま、自分は何のゆかりなのだろうかという疑問を抱きながら、過ごしていた。