「あの~、すいません。水晶岳ってどれですか?」

女性は日焼けしないように、手拭いで顔を隠すようにしていた。私は立ち止まって、

「頂上がふたこぶラクダのような、あの山ですね」

と説明し、

「また抜かれると思いますけど、お先に」

とその場を後にした。

北ノ俣岳近くまで来て振り向くと、薬師岳の後ろに身を隠すように薄黒く剣岳が見えた。

足元には、チングルマ、シナノキンバイ、イワカガミ、などがたくさん咲いている。残雪の上を吹いてくる風が冷たくて気持ち良い。

中俣乗越で一人のおばさんが倒木の上に腰を下ろして休んでいた。麦わら帽子と小中学生が着るようなブルーのヤッケに、二本白線の入ったジャージのズボンでキャラバンシューズだ。

畑でよく見かける農家のおばさんという感じの人で、私たちのほうへ振り向くと、

「もう五郎の登りは始まっているのでしょうか?」

と聞く。私たちも太郎平小屋を出てから、登り下りを何度も繰り返してきたので、このおばさんの「まだか」の気持ちがよくわかった。私は目の前の急坂を見上げながら、

「あれが頂上じゃないでしょうか?」

と自信なさそうに答えた。おばさんはさらに、

「なんでも五郎の最後の登りは、きついって聞いてきましたから」

化粧などまったくしたことのないような、日に焼けた顔だった。

「今日はどちらまでですか?」

と今度は私が聞いてみた。

「今夜は黒部の小屋に泊まって、明日三俣山荘から源流を横切って、雲ノ平へ行き、薬師沢泊まりの予定ですけど、今年は雪が多そうなので、三俣の小屋で聞いてみて無理だったら、双六小屋から鏡平のほうへまわろうと思います」

とまったく反対方向のコースを答えてくれた。

姿だけで人を評価してはいけない。このおばさんは、しっかりした計画を立てている。飾りっ気のないおばさんと別れて、私たちは黒部五郎の最後の登りにかかった。

太郎平小屋を出て6時間。やっと黒部五郎岳直下の分岐点まで来た。男が二人休んでいたので、私たちもザックを下ろした。黒部五郎の大きなカールの全貌が見渡せた!

この山はすり鉢の4分の1が割れてなくなっているような形をしている。欠けてなくなっている部分の下手前が黒部川の源流で、その崖の上が雲ノ平だ。カールは草と花と雪と小さな清流だけの世界である。

先には今夜泊まる黒部五郎小屋の赤い屋根が見えた。すでに分岐点で休んでいた推定70歳くらいのおじいちゃんが、私たちに言う。

「荷物を置いて、頂上を踏んでくるといいですよ。槍が見えますよ!」

このおじいちゃんは、水晶小屋まで行くという。私たちが2日かけて予定している行程だ。

私たちだって今日8時間歩いてきて、黒部五郎小屋に泊まり、明日三俣蓮華岳、鷲羽岳、水晶小屋まで7時間を歩こうと思っている。(この人は1日15時間歩くのか……)

黒部五郎岳2840メートルの頂上に立つ。

47歳と31歳のころ登った槍を確認。感無量。

久我さんと前後して、一気に黒部カールの底に下りてみると、道端にワラジが一足捨てられてあった。

小川が音をたてて流れている。