地方から飛び出した一家。都会で直面した事実~新たなムラ、そして共同体を失う

都会に出てきて待っていたのは、「会社」という新たなムラでした。

都会には自由や夢がある、窮屈な"世間"に縛られない広い世界に出てきたと思ったのに、「出る杭は打たれる」「身内」「ウチでは/ソトでは」「空気を読む」"世間"は、会社にも厳然と存在していました。

入った会社では、職場という共同体を乱さないように振る舞うことが、(暗黙のうちに)求められました。専業主婦になった女性にも「社宅」という、息苦しい新しいムラがありました。

世間体を気にして暮らすのが嫌で都会に出てきたというのに、また新たなムラ社会に巻き込まれてしまったわけです。最初は当惑したでしょうが、次第に立派なムラ社会の一員になります。

私の父親もすっかり会社人間となり、有名大学の人たちに囲まれた職場で高卒の悲哀を味わいながらもムラのためによく働き、ムラに尽くし、ムラの人たちをよく家に連れてきたりもしました。

会社の運動会にも何度か連れて行かれ、お昼にはいくつかの家族がまとまって弁当を広げましたが、まったく馴染めなかったのを覚えています。

今から考えれば、子どもには理解できないような、ムラの大人たちの微妙な目配りや気遣いが交錯するような難しい場だったからではないでしょうか。

住んでいたのは同世代が多い新興住宅地で、両親と同じく地方から出てきた人が多かったと思いますが、そこにもやはり新しくムラができていて、子どもの頃に母の実家がある田舎で聞いたような噂話が絶えませんでした。

とはいえ、なんとか会社で空気を読みながら三十数年を過ごし、定年退職した。勤め上げたら、田舎にでも帰ろうか。昔は鬱陶しい共同体だったが、それは自分の若さゆえであって、今ならなんとか周りと合わせながら、楽しくのんびりと暮らせるだろう。

昔の友達もいるし、人生の最後に故郷に貢献するのもいいじゃないか。歳をとったら、自然が豊かで空気もいい場所でのんびりと暮らしたい。この世代には、そんな風に漠然と考えていた人も多かったでしょう。

ところが、いざ冷静に見てみるとそこにはもう昔の故郷はありません。

過疎化が進んで人が減り、店もどんどん潰れ、実際に暮らしたらとても不便な生活になるのは明らか。昔の友達も出て行ってしまっているし、親しい知り合いはごくわずかで、馴染めるかどうか不安になる。

人が減っているので助け合いもできなくなっているから、良くも悪くも共同体としての体をなしていない。よく見てみれば、故郷に自分の居場所はもうないということに気づくわけです。

嫌で出てきた田舎のムラ。脱出したら今度は会社にムラがあった。そのストレスに耐え続けてようやく会社のムラから逃れ、故郷に帰ろうと思ったら、そこにはもう居場所がなかった。自分の居場所はどこにもない。

「私の存在を認めてくれる共同体はどこにあるのか?」

特に男性に顕著ですが、これが現在、高齢期を迎えている方々の背景です。せっかく、定年して鬱陶しいムラから逃れたのだから、もう何の共同体にも属さなくていいのではと思う方もいるでしょう。

世間など意識することなく、「個」として自由に生きていけばいいじゃないかと。