確かに、理屈はその通りですが、現実には多くの日本人にとってそれはかなり難しい。著名な心理学者、河合隼雄先生は『母性社会日本の病理』の中で次のように指摘しています(学生時代、河合先生の講義を受けていた憧れの人なので、敢えて「先生」と呼びます)。
「西洋人と日本人の自我構造の相違は、対人関係のあり方の中に如実に反映される。日本人の場合は、人間関係の基本構造として、無意識内の自己を共有しあう者の関係として、無意識的な一体感を土台としている。
これは西洋人の場合のひとりの『個人』と他の『個人』が関係を持つという形態とは著しく異なるものである。(中略)日本人にとって、好ましい関係は、契約による関係ではなく、『察しのよい』関係である。
(中略)筆者はこのような考え方の相違を、日本における『場』の倫理と、西洋における『個』の倫理の対立として論じてきた。『場』の倫理に従えば、個人を際立たせることはきわめて危険であり、いかに能力があっても、うっかり行動すると場の外に出ることは死を意味するので、これは大変なことである。」
「わが国においては、場に属するか否かが全てについて決定的な要因となるのである。場の中に『いれてもらっている』かぎり、善悪の判断を越えてまで救済の手を差しのべられるが、場の外にいるものは『赤の他人』であり、それに対しては何をしても構わないのである。」
河合先生は、日本人の言動は、属している共同体の曖昧な(言語化されない)総意に依存している。また、共同体に属している限り、その共同体から"救済の手を差しのべられる"が、属していないと(場の外に出ることは)、危険である(赤の他人になってしまうと、何をされるか分からない)と喝破しています。
身内を頼りに生きている日本人にとって、「個」として生きるのは極めて難しいという指摘に、私は大いに同意します。
欧米人のように、神という存在や神への信仰があり、神の評価を正義とした上で「個」として振る舞うことは、ほとんどの日本人にはできません。
卑近な例で言えば、欧米ではエレベーターに乗り合わせたとき、知らない人であっても挨拶をして、ちょっとした世間話をするということが自然と行われますし、駅で大きな荷物を抱えている人がいたら手助けするのがごく普通の行動で、女性や障碍者やお年寄りを優先するのも当たり前です。
それは神の視線、正義の基準に則った行動です。しかし、日本人は「ウチ」か「ソト」か(知り合いかそうでないか)が基準であり、赤の他人にはとても冷たい。場合によっては、攻撃対象にさえしてしまう。
そんな「共同体の論理(身内かどうか)」を基準にした行動様式が染みついているのに、「個」として生きていけるでしょうか。
身内や世間なしに、個として振る舞えと言われれば多くの場合、ひどい孤立や孤独を感じるだけに終わるはずです。