キレる高齢者が失っているのは「世間」
高齢者と「世間」や「共同体」の関係について、昨今の話題をひいてもう少し話をします。
飲食店や小売店でアルバイトをしている学生たちは、一様に「高齢男性は怖い」と言います。
店内でマナー違反をしたり、些細なことで文句を言い始めたり、怒鳴ったりする人が少なくないからです。
接客のシーンにおいて、高齢男性は極めて面倒くさい、警戒したほうがいい存在になってしまっています。もちろん高齢女性にもそのような人はいるでしょうが、圧倒的に高齢男性が恐れられているというのが現状です。
「世間」をキーワードにすれば、これは分かりやすい現象です。
マナーというものには(少なくとも日本人にとっては)「世間を安定的に維持する手段」という面があります。
あるいは、世間に馴染み、世間の一員として共同体を乱す意思を持たない者であると証明するための手段とも言えるでしょう。
私たち日本人はそのときに属している世間の中で、その安定を乱さないような言動を選択し、その安定に寄与する役割を演じ続けてきています。
つまり、世間というものの存在が日本人のマナーをよくしている。
逆に言うと、日本人は世間を失うとタガが外れやすくなる。そう考えると、高齢者にマナーの悪い人が多くいることも説明がつきます。
高齢期になると世間(属する共同体)が狭くなったり、なくなってしまったりするからです。
生まれ育った故郷にはもちろん、都会へ出て会社に就職しても、そこには世間がありました。
定年などで職場を離れる、配偶者や友人を亡くす、身体的な衰えによって活動範囲が狭くなる、郊外での一人暮らしにより他人との交流がなくなるなどして、それまでの人生において、ずっと自分の言動の選択基準となってきた世間を喪失していきます。
それは特に、会社に人生を捧げてきた男性に顕著です。
それまで世間が提示してくれていた「正義」はどこにもありません。「空気」を読もうにも読む「空気」がありません。
世間を失った高齢者ほど、マナーが悪くなるわけです(そう考えると、立派で格好の良い高齢者は、様々な活動や交流がある環境に身を置き、世間を感じ続けているのでしょう)。
「キレる高齢者」についても同じように考えられます。