ALS

元気だった頃の京子は茶道をしながらそれにまつわる歴史のこと、陶器の美に関すること、掛け軸に関することなど、さまざまなことを私に教えてくれた。私は趣味の一致するところだけ、共に楽しんでいたが、料理と茶の作法だけは苦手だった。

ところが、大学病院から帰った翌日から、妻は茶の作法を教えることを諦め、本格的に、私に日常の料理を教えるようになった。検査入院の際にストレッチャーに横になっていた京子からは、想像ができないほどの元気さで、キャスター付きの事務椅子に乗って毎日、廊下を隔てた台所に現れた。

「豆腐の切り方が大きすぎるよ。でも、味は好きだよ」

子供に向き合っているかのように、病院から解放された心が、優しくふわふわと浮き立つ雰囲気に包まれていた。

「え! 噛み切れないの」

「フフフ。そんなわけないじゃないの」

「なら、いいじゃないか」

「料理に見た目の上品さがないの。それが分かるようになったら、料理のみばえもよくなるわよ」

「へえー、そうなんだ。味じゃないんだ」

私は京子の浮き立つテンポにあわせた。

「見た目も、大事なことなんだから」

「恐れ入ります。次から気を付けまーす」

「馬鹿にするんだから」

「安心して。これからは、絶対に馬鹿にしない。君に感謝のかの字なんだから」

見た目が男の料理に必要なのかどうかと、少し抗う態度で誤魔化した。

「何、それ?」

少し口をとがらしているのが、見つかってしまったようだ。

「こんな感じでいいかな?」

豆腐の厚さを半分にしてから、さいの目切りにした。

「一応、一人で食べるとすれば、このくらいでいいかな。今日はこのくらいにする」

「え! 一人ってなんだよ?」

京子は、問い返した私の言葉に微笑むだけで何も応えず、事務椅子に座ったまま、廊下を左足で蹴りながら、自分の部屋に戻っていった。妻は口から食べる楽しみを失う。しかも、そう遠い日ではない。