宇治十帖に登場する宇治の阿闍梨は、亡くなられた八の宮を夢に見たことを語る。「八の宮様が俗人の姿で夢に現れられて、『少しばかり思いが乱れることがあって、極楽に行けない。非常に残念だ。どうか供養をしてもらいたい』と言われました」。
これを聞いた亡き八の宮の二人の姫君(大君、中の君)は、自分たちのせいで父宮が極楽往生できないのだと、嘆く。その様子を見て、薫(表向きは光源氏の子、実父は柏木)は、八の宮が生前籠っておられた寺(阿闍梨の寺)にお布施をして誦経をさせるなどの手配をした。
物語の上で、宇治の阿闍梨がありもしないことを言ったのかどうか、明らかではない。しかし、布施を得たいために、ありもしない夢の話を語った可能性を、否定することもできない。
『源氏物語』は、「うそ」の展示館である。
人は、どのような場合に、どのような「うそ」をつくか。「うそ」は、「うそ」をついた人に、どのような不当な利得をもたらすか。「うそ」は、どのような範囲の人々に、どのような迷惑をかけるか。別の言葉で言えば、「うそ」の波紋は、どのように広がっていくか。「うそ」は、しょせん「根無し草」であるから、いずれ「うそ」であることが露顕するが、どのように露顕するか。「うそ」にまみれて生きた人は、最終的には、「根無し草」と同じように、立ち枯れるほかない。
光源氏が死ぬであろう「雲隠」の巻には、巻名のみがあって本文がない。紫式部は、光源氏の立ち枯れる様を、万感を込めて、このように表現した。
『源氏物語』は、「うそ」について、様々な角度から考えさせる物語である。