東京へ
家の北側に見える六甲の山々は緑が深く、四季折々に美しい稜線を見せ、子供心に大好きな景色だったが、この景色も見納めとなった。
神戸の家からの引越荷物を搬出した当日は、大阪のホテルに泊まり、翌日正午過ぎ、大阪駅発の特急列車に乗って、関西を後にした。
当時、東京まで列車で八時間半かかると聞かされていた。車窓が明るいうちは旅行気分で兄や弟とはしゃいでいたが、名古屋を過ぎた頃には、外も明るさが落ちてきて、何か心寂しくなり、皆黙りこくってしまった。静岡あたりではすっかり夕暮れ時となっていた。
父が窓の外の畑を指さして、
「こんもりと丸い茂みが続いているだろ。あれは茶畑や。静岡はなあ、有名なお茶の産地なんや」
と、言った。子供たちの気持ちを盛り上げようとして、話しかけたのだろう。
だが、どこまでも単調な丸いお茶の茂みが連なるうす暗い茶畑の景色が、妙にさびしくて、行く先の不安を駆りたてられたのを覚えている。あたりは真っ暗になっていった。
東京駅に着いたのは午後八時半頃だったが、子供にとってはもう真夜中だった。
列車を降りて、駅前から生まれて初めてタクシーに乗った。車の窓から見える東京の夜景は今まで見たことのないネオンが光っていて、神戸の灘とは別世界だった。
特に銀座四丁目を過ぎる時に見上げた森永製菓の丸い地球儀の形をした大きなネオンサインは、暗い夜空にまるで玩具のように明るく輝いていたのを、今でも思い出す。
引越先は東京のど真ん中、中央区明石町だった。隅田川の側で、川を渡るために橋を利用するならば、勝鬨橋が一番近かった。家からはちょっと遠かったが、大型船が橋の下を通る時には、車や人の通行を止め、中央で橋を跳ね上げて開き、舟を通すのだが、これが面白くて、よく眺めに行ったものだ。
又、川を渡る別の方法として、今は佃大橋が架かっている場所に、当時、橋はなくて、佃島への渡し船が無料で通っていた。渡し船に乗ることが目的で、よく佃島へ遊びに行ったものだ。築地本願寺も徒歩圏内にあったので、広い庭や、本堂に続く大きな階段は、子供たちの絶好の遊び場だった。