新隊員後期教育

武山駐屯地から東京都練馬区の朝霞駐屯地までバスで送られたが、入隊時とは違い、武山で同じ釜の飯を食った仲間同士なので車内の会話は弾んだ。

武山から朝霞に移動する人数は20数名で、そのうち私と同じく31普連配属となったのは5、6名程である。他職種である施設科部隊や通信科部隊、輸送科部隊その他へ進む者もそれぞれ数名ずつはいて、「職種や部隊の違いはあれど、新隊員前期の同期として互いに頑張ろう!」と、健闘を誓い合った。

朝霞は武山よりも広くて大きく、様々な部隊が所在する駐屯地だ。また、婦人自衛官(現在は女性自衛官との名称)教育隊もあり、“若い女性隊員が大勢いる”という華やかな特性もある。のちに空挺団へ異動した時、「なぜ、女の多い朝霞から男ばかりの習志野なんかへ来たのか?」と聞かれることも度々あった。

武山の同期だけでなく、他の駐屯地で前期教育を修了してきた者たちとも合流し、31普連での後期教育同期は、当初12名だったと思う。このうち、やはり外出したまま帰隊せずに1名が除隊した。その数ヶ月後、「行方知れずのままだった彼が池袋のパチンコ屋で働いているのを同期の誰かが見た」という話を聞き、とりあえず無事であることが分かって安心したことを覚えている。

教育隊が主体を成す武山は、所在する隊員の多くが新隊員等の若者たちであり、「駐屯地自体が教育機関」との雰囲気があった。それに対し、朝霞には婦人自衛官教育隊の他、体育学校や輸送学校等の教育隊も所在するが、それぞれ任務を持つ各職種部隊も多く所在し、「業務が行われる職場」という雰囲気である。階級も年齢も高い人から低い人までバラエティーに富み、賑やかな感じさえあった。

ただ、後期教育間の上下関係は区隊長や班長との間にあるのみで、同期との横のつながりさえしっかり保たれていれば、毎日がそれなりに楽しく過ぎ去って行った。後期教育は、それが終わればいよいよ部隊勤務となる。また前期とは違い、職種ごとの教育であるため内容が専門的となっており、区隊長や班長も前期の方々に比べて厳しさがやや増していた気がする。

下手なことをすれば、「お前は前期で何を学んできたのか!」と叱られ、お世話になった前期の区隊長や班長に申し訳が立たない気もするので気持ちを引き締めていた。後期教育で主に学んだことは、「81ミリ迫撃砲」に関する知識と取り扱いについてである。やや古くはあるが破壊力の強い火砲であり、“人を殺す訓練”を受けていることを、嫌でも実感させられた。

しかし、ふと目を駐屯地の外側に向ければ、そこには普通に人々や車が往来する平和な日常の風景が見える。そんなギャップを感じつつ、日々、駐屯地内のグラウンドで班長に叩かれながら、81ミリ迫撃砲の操作訓練に汗を流した。前期教育にはなかったと思うが、後期教育では格闘の課目がカリキュラムにしっかり組み込まれていた。

しかも、教官は区隊長でも班長でもなく、部隊から派遣されてきた“生粋の格闘教官”だ。階級は2曹(軍曹に相当)くらいで、見るからに強そうで身なりもきちんとしている。話す言葉は明瞭で歯切れよく、目は澄んでいるが眼光鋭く、格闘着も清潔でパリッとしていた。歯もしっかり磨いて来られたようで吐息はミントの香りが漂い、全く隙を感じさせない。

自衛隊で格闘教官を任される人のレベルの高さを感じた。新隊員教育なので「受け身」や「型」など基本のみであったが、「将来、君たちが戦う相手は外国人等、大柄であることが予想される。従って、狙う急所の位置もやや高くなることを想定して突きや蹴りの練習をしなさい!」というアドバイスを受けた。「自衛官となったからには、素手で外敵と渡り合うことも当然あり得る!」そう自覚した最初の訓練だった。