プロローグ
しばらくして、会社のトップは、有望な事業だと判断していたので、当時鉄鋼会社や自動車会社向け金属防錆油剤や、特殊塗料を製造販売し、顧客先が同じだったディック・ペイントの前身ディック機材株式会社に佐藤を異動させることを決めた。
そこで、昭和四十二年佐藤は、三十二歳の時、提携先の金属潤滑剤メーカーの協力で四十二日間、厳冬の一月末単身で本社のある米国シカゴに研修のため出張した。佐藤は、シカゴに着いて間もなく何十年ぶりかの猛吹雪(Big Snowstorm)に見舞われ、終日ホテルに閉じ込められたのを今でも忘れられないという。
当時、米国の鉄鋼業は、自動車、家電、住宅など耐久消費財の好調と寡占価格体系にも支えられた重要な基幹産業の一つであった。佐藤は、米国及びカナダの鉄鋼会社の現場を訪問し、帰国後、技術雑誌『薄板加工』に「米国の高速ミルにおける循環式金属潤滑剤」と題する記事を掲載したところ、日本の大手鉄鋼会社幹部から、「話を聞きたい」との連絡が入り、このことが記念すべきビジネスのスタートに繫がった。
当時、殆どの大手鉄鋼会社が米国から設備と技術を導入していたので、日本語に訳し難い技術用語はそのまま英語が使われていた。佐藤も辞書を引いても適切な語彙が見当たらず、いたし方なく技術用語を英語で説明したため、顧客先のエンジニアが長い間佐藤をエンジニアだと勘違いしていたという逸話も残っている。
その後、この事業は好調に推移したものの、鉄鋼会社からもっとしっかりした技術サービスを求められ、金属潤滑剤部は、総合研究所を持つディック・ケミカル株式会社に部員十人余を引き連れて異動した。
ともあれ、佐藤は部下にも助けられて、この分野で実績を上げ、取締役になり、金属潤滑剤部長から営業本部に移り、国際事業本部長や、大阪支店長などを歴任し、今回顧問から、およそ三十年ぶりに古巣に戻ることになった。佐藤は、小柄な体格で、もともと酒も飲めず、お世辞の言えない性格だったが、下手なりにゴルフや、麻雀の付き合いは欠かさなかった。飲めなかった酒も、鉄鋼会社の人たちとの付き合いで、少しずつ飲めるようになっていった。