パートナー(一)
李正真は、韓国晋州の出身で、一九二二年(大正十一年)朝鮮普通学校が四年制から六年制になった年に就学した。朝鮮総督府も教育に熱心ではなかったから当時の就学率は、かなり低かった。そんな中で、普通学校に進学出来たのは、李が伊藤に自慢したように、両班の出身だったからかもしれない。
一九三一年(昭和六年)の満州事変以降多くの朝鮮人が自分の意思で高い教育や、良い職を求めて「在日朝鮮人」として日本に定住するようになった。その頃、朝鮮では日本と合体した方が有利だという考えさえ出ていたようだ。
李の父親は、一九三三年(昭和八年)大阪で養豚業を営む友人の誘いで、何もかも財産を処分して、妻と十一歳の長男正真と共に友人が仲介した大阪南の通称「朝鮮部落」の廃屋のような一軒家に移った。隣地に一反よりやや広い雑草の生い茂った荒れ地が付いていた。
日本名は、井上姓を名乗り、正真は、正となった。最初は、小さな掘立小屋で、友人の指導もあり、二頭の子豚の肥育から始まった。そこで、親子は懸命に働き、二年後には、豚舎も大きく改造して八頭に増やし、毎週二頭ずつ出荷した。肥育管理は勉強していた父が担当し、正真は、母と共に豚舎の敷き藁を交換し、豚舎の隣で堆肥にして、荒れ地を耕し、いつの間にか畑にして白菜、大根などの野菜を育てた。
一方、およそ六十日間肥育した肉豚を父と一頭ずつ竹籠に入れ、毎週二回、リアカーで市場に持ち込むのも正真の仕事だった。更に、飲食店の残飯を集める仕事も正真の仕事で、最初に正真が日本語で挨拶したので、在日朝鮮人と気付く者はいなかった。
その後、回収量が増えたので、残飯の集荷と、受け取って来た残飯の中の爪楊枝、箸などの異物の除去は部落の女たちにやらせた。しかし、正真の父は、養豚業が軌道に乗ると、女遊びに精を出すようになった。
当時、部落の女たちは、部落民同士まぐわり、売春に走る者もいた。年端の行かない子供たち、中には兄弟姉妹までも、大人の所業を見て、妊娠しても誰の子供かわからないことが頻繁に起こっていたという。