宗ちゃんと級友たち
中学三年生のとき、生徒会が発足することになって会長を選ぶ選挙に何故か私が立候補させられた。どのような経過だったかはすっかり忘れたが、そのとき会長に選ばれたのが宗ちゃんで私は副会長になった。
その生徒会がどんな活動をしたのかもすっかり忘却の彼方へ行ってしまった。卒業後、宗ちゃんは町の高校へ進学。私はすぐ上京してしまったので、その後、宗ちゃんをはじめ同級生とのかかわりはプツリと切れたまま月日は流れた。貧しくて辛い日々だった田舎町のことは思い出すのも嫌で、忘れようとして忘れていた。
数年前のある日、同級会から一通の「お知らせ」が届いた。「今年、私たちは還暦を迎えます。ついては記念の同級会を催したいので、万障を繰り合わせて出席してください」とあった。世話人は宗ちゃんだった。長い長いご無沙汰だったけれども「行ってみようかな」と思った。時間は昔の苦い思い出を薄めてくれたのかもしれない。
真岡線の終着駅、栃木県芳賀郡茂木町。人口二万に満たない過疎の町である。小学校三年から中学を卒業するまでの七年余りを過ごした町だ。
その日、駅前に同級生の数人が待っていて、町で一番大きな八雲神社に案内された。社の木々の新緑がむせるようだ。中にはすでに大勢の同級生が神明な顔で座っていた。神主さんの御祓いを受けた一行は、町で唯ひとつのホテルに集まった。なんと百二十名もの出席だそうでホテルの宴会場は熱気に溢れていた。
しかし当然のことながら誰がだれか見分けがつかない。同じ還暦の顔なのに老けて見える者、若く見える者、さまざまである。でっぷりと肥えた恰幅のよい男性が声をかけてきた。
「お前、本当に間中敏子か?」「ええ、そうよ」……宗ちゃんだった。それを機に次々と名乗りを上げた人のなかに廣子ちゃんがいた。廣子ちゃんの顔とお国訛りと共に幼い日が蘇った。
「あの頃はみんな大変だったんだよう、疎開の人ばかりじゃないよ。家の二階なんか畳が無かったんだよ、母とリヤカーに積んでぇ売りに行ったんだよ」
口々にあの頃の暮らし振りを語る輪は広がり、いつしかうち解けていった。その夜、ホテルに泊まった者達は思い出話にすっかり夜更かしをしてしまった。宗ちゃんは今、町会議員だそうだ。
私が絵を描いていると知った彼は、その頃ちょうどできた「道の駅」で個展を開けと勧めてくれた。翌日、宗ちゃんに伴われて「道の駅」へ行った。そこには町長も来ていた。個展の話はとんとん拍子で進められた。翌年の六月、大作二点と小品十二点あまりを持ち込んで「道の駅」で個展を開いた。
廣子ちゃんはあれこれと気を使って準備を手伝ってくれ、期間中は毎日私の替わりに会場に詰めていてくれたのだ。初日の夜は二十名ものクラスメートが集まって歓迎会を催してくれた。
名前も顔も思い出すのにはかなりの時間がかかったが、ずば抜けて記憶のよい田中さんが上手に過去と現在をつないでくれたのだった。私は長年この町にご無沙汰していたことを恥ずかしいと思った。