「型」があっても、オリジナル。個性が光る
「道」では、「型」というものを教わります。
華道嵯峨御流では、例えば、盛花を生けるには、水盤に水をはり、七宝を置き、五つの役枝、体、用、相、右相、左相で構成する様式、つまり「型」を習います。
体の寸法は水盤の直径の約一・五倍で、用は体の三分の二、相は用の三分の二、あるいは体の二分の一と決まっています。これに、継ぎを入れて、全体の風姿にまとまりをつけ、五居の構を生けあげます。
先生が、お手本を生けられ、花材が配られます。この時点で、「型」はあっても、誰も、先生と同じ花は生けられません。なぜなら、花材が同じであっても、それは自然の植物であり、どれとして、同じ枝ぶりのものはなく、花とて、向きや咲き加減や、微妙な色合いがちがうからです。それぞれが、自分に割り当てられた「ご縁」のある花材を用いて、「型」に取り組み生けます。
すると、「型」は踏襲できているので、バランスのとれた美しい盛花が生けあがりますが、人によって、用や相に用いた花材がちがったり、継ぎの細かな作り方がちがっていて、皆が個性ある作品を生けあげるのです。
「型」通りですので、伝統の美学は守られています。しかし、その中であっても、いえ、そのような中であればこそ、個性は不思議と光るのです。
これは、大変面白く、素晴らしい事だと思います。日本の「道」は、「型」によって、誰もを、長い伝統で培ったバランスの整った美しい姿に導きながら、決して個性を殺したりはしません。むしろ、個性を生かしながら、「型」にのっとった美学を追求していく、それが「道」です。
華道は、現代は、女性の習い事とみなされがちですが、大覚寺で華務職となった未生斎広甫をはじめ、もともとは男性のたしなみであり、武士は、戦場においてさえ、馬具の轡を花留めにして、花を生け、ひととき花を愛でたといいます。
華道は古くさいと思われがちですが、華道では、一輪の花を生けるのさえ、姿を整え、心を込めて生けます。沢山の花をありったけ使うアレンジメントとちがい、地球のエコにかなった花で、命を慈しむ優しさが生まれ、自ずと心の美しい人になれます。
現代、教育現場で、没個性になりがちなのは、「型」とは全くちがう、枠にはめるという、いわば、クローンを作るような教え方が、行われているせいではないでしょうか。私の周りを見ると、最近、いけばな男子が増えてきており、大変頼もしく思っています。日本の未来を担う子供達にも、日本の「道」を、どの「道」であれ、ふれてみて、知ってもらいたいと思います。