相模北条家訪問
弥生の初め京の都を発ってから、早二か月ほどが経ち、石和の郷は春爛漫と成っていた。桃の花、梨の花などが、一面に咲き乱れ、まさに桃源郷そのものだった。余りの心地よさと、武田晴信から命じられた旅籠の主人に勧められるままに、つい長居して、すでに十日間も逗留した。
雑賀の孫一から頂戴した金貨はまだ七枚ほど残っていた。
石和の郷を後にした光秀一行は、勝沼から笹子峠を越えて、相模に向かった。八王子から鎌倉街道を南下し、十日ほどで小田原の城下に入った。
湯本温泉にて三日間ほど休養し、妻子を旅籠に置いて、光秀は茂作を伴って小田原城に向かった。小田原城は早川の河口に近く、相模灘に向かって開けた地に造られた平城だった。周囲は全面堀にて囲まれ、早川から引き込んだ水で満々と満たされていた。堀の内側には、十間もの高さの土塁が築かれ、城郭はその内側にあり、難攻不落の構造で、現にこの数年後上杉謙信と武田信玄に攻城されたが、籠城した北条軍を攻めあぐねた謙信も信玄も敵わずと見て撤退している。
元々北条氏は、桓武平氏の流れの伊勢氏で、家租の伊勢新九郎盛時は、室町幕府の要職を務め、備中荏原荘に領地を得ていたが、自分の姉の嫁ぎ先である、今川家の家督騒動の内紛に首を突っ込み、姉の子の氏親を支援し、駿河国興国寺城が与えられたのをきっかけに、伊豆に乗り込み、堀越公方の大森氏を言葉巧みにだまし、小田原城を奪って本拠地とした。
その後、京都の室町幕府とは距離を置き、坂東平氏の嫡流だった北条氏に因んで北条を名乗った。これは、室町幕府の関東管領家である上杉家に対抗するためで、坂東平氏の家租平高望が拓いた関東の地を、上方とは別の統治国としたいという、かつての平将門の思いに通ずるものであった。
その頃、甲斐、相模、駿河は、甲、相、駿の三国同盟を結んでいた、甲斐からの帰り道小田原の北条家を訪ねたいと言うと、晴信は、北条氏康宛の紹介状を書いてくれた。
大手門を訪ねて、武田晴信からの紹介状を見せると、門番は急いで奥に引っ込んでいったが、すぐに引き返してきて、本丸御殿内の客間に通された。
しばらくすると、足音も荒く若年の武将が現れた。
「遠路大儀であった、面を上げられよ」
顔を上げて挨拶しようとする光秀を手で制して、
「甲斐の武田殿の添え状にてその方の素性は相分かった。諸国流浪とは羨ましい限りじゃ。余などはこの年で家督を継がされ自由が利かぬ。言い遅れたが余は北条氏政じゃ。父はこの頃若干過労気味で家うちの事は余が取り仕切っておる」
「今日は、南蛮渡来の鉄砲と言う珍しい武器を、お見せするためにお伺いいたしました」
「その方、土岐源氏の明智殿の一族と聞いたが、武器商人に成り下がったのか」