明智城落城

明智光秀は、美濃源氏土岐氏の傍流明智氏の一族で、幼名を彦太郎と言った。

元服して後は、明智十兵衛光秀と名乗った。土岐氏は源氏の名門で、美濃国の守護大名だったが、よそ者の斎藤道三に国を乗っ取られ、追放された。

明智家はその後、斎藤道三の家臣となり、美濃国可児(かに)郡と恵那(えな)郡に知行を得ていた。可児郡瀬田の長山城は、城というよりは館風で山城だった。光秀は、この長山城で生まれ居城していた。恵那郡の白鷹城は要害の山城で、光秀の叔父の明智光安が居城していた。東美濃の白鷹城は、三河、駿河、信濃と国境を接しており、他国からの侵略を防ぐための防御の城だった。

弘治二年(一五五六年)四月、斉藤道三と、嫡男義龍の間で争いが起こり、道三は我が子義龍に攻められ敗死した。光秀の叔母が道三の正室だったので、明智家は道三に味方した。

その後、九月十九日、義龍は、自分の母方の実家である明智家の討伐に掛かった。可児郡の長山城は戦のための城ではなかったので、光秀は、金目の物は皆、菩提寺である天龍寺の裏手の土手に穴を掘り隠して、妻の(ひろ)()と幼子の(りん)は妻木の実家に帰し、戦える者のみ引き連れ、恵那郡の白鷹城に籠った。義龍軍と激しい戦いとなったが、多勢に無勢で、やがて落城の憂き目となった。城主で叔父の光安と、その弟光久は犠牲となり、光秀や、光安の子光春、光久の子光忠などを逃れさせた。光秀は、白鷹城から逃れ、暫く木曽の山中に潜み隠れていたが、その後義龍は、織田信長との戦いに大童おおわらわとなり、明智家の追討までは手が回らなかった。

光秀はその隙に、天龍寺の土手から金目の物を掘り起こし、売り払い、懐には相当の金貨、銀貨を持参していた。妻の煕子の実家に寄り、煕子と倫を連れ出し、中間の茂作を伴って光秀は京に来た。その頃、京の都は応仁の乱以来、三好一党や松永久秀らによる権力争いで焼け荒れて、盗賊や浮浪者の巣窟と化していた。