越後上杉家訪問

一乗谷朝倉家を辞した光秀一行は、越後を目指した。その頃、日本には天下を狙うほどの六つの大大名家が有ったが、その筆頭が越後の長尾景虎(かげとら)だった。

景虎は二十八歳と青年の盛りで、自らを毘沙門天(びしゃもんてん)の成り代わりと思い、世の悪を懲らしめるために全てを捧げるとの決意のもとに、侵略者に対して被害者側からの要請があれば、「正義」の名のもとにはせ参じ、侵略者を徹底的に叩きのめし、その後は見返りも求めず兵を退く。電光石火の軍神として君臨し、天文二十二年(一五五三年)、その頃都にて、三好三人衆や松永久秀等に傀儡化されていた、室町第十三代将軍足利義輝から上洛を乞われ、二十三歳の若さで上洛を果たし、後奈良天皇や足利義輝に拝謁を果たしたが、その頃上野国にて、北条家に侵略を脅かされている、関東管領山内上杉家の救援要請もあり、早々に帰国している。

その後、北条氏に追われた、関東管領上杉憲政を春日山の城下に、館を造って匿い庇護した。やがて景虎は、上杉憲政の養子となり、家督を譲り受けて上杉政虎と名乗った(後に出家して、謙信となった)。同時に、姉の子の景勝に弾(だん) 正少弼(じょうしょうひつ)の官位と共に長尾家の家督を譲った。

足羽川沿いの茶店で待たせてあった妻子と合流した光秀一行は、足羽川、九頭竜川と船で下り、その夜は芦原温泉にて旅の疲れを癒した。翌日は海岸線沿いを北上して加賀に入り、片山津温泉にて宿泊した。その後は安宅(あたか)の関を通り能登に入った、能登には守護の畠山氏が要害の七尾城を築き治めていたが、一向一揆の勢力が増すに付け衰亡して、加賀、能登は一揆の国と成っていた。

越前一条谷を発ってから七日目に、上杉家の本城春日山城のある直江津の春日山に辿り着いた。春日山城は南北朝時代に越後の守護だった上杉氏が築いた城で、難攻不落の要害の山城だった。光秀が春日山城を訪問した時、政虎は毘沙門堂に籠もり読経の最中だった。

政虎は毎日早朝に起床し、冷水にて身を清めた後、本丸の裏手にある毘沙門堂に籠り、精神修養に努め、毘沙門天の全てを自分の中に取り込み、毘沙門天そのものに成りきろうとしていた。そして修業が終わると、出陣のない日は、日長大酒を飲んで暮らしていたが、色欲を断ち女人を近づけなかったので子はいなかった。

光秀は本丸御殿の客間にてしばし待たされた。本来長尾家は桓武(かんむ)平氏の系統だったが、土岐源氏の光秀の訪問を政虎は快く受け入れた。

政虎は、白装束の上に虎の柄を配した陣羽織を羽織っていた。