「公立的部活動」は、部活メイン、勉強サブの教育になることがある

そもそも論で言えば、部活は有用です。でも、日本の教育システムでは、根本的に大事なのは勉強です。学校は、勉強を目的としたコミュニティです。勉強するうえに、部活もあることになっています。これは公立も私立も同じです。

勉強、すなわち学問を中心とした評価システムは公平かつ有用です。能力と適性に応じて職業や立場を選ぶのに適したシステムだと思います。

進路を考えることは、将来の暮らしを考えることです。趣味をどうするかということではありません。将来の暮らしを考えるときに必要なのは、第一義的には学力であって、部活ではありません。

部活での経験は、将来の暮らしの「潤い」にはなりますが、基盤にはなりません(生業にするなら、スポーツに自分や家族の未来をかけるなら別の次元の話になります)。

もちろん潤いは大事です。誰でも自分がいちばん輝く場をもっているべきだし、それを奪ってはいけません。しかし、それ一辺倒になってもいけません。

大人になっても、仕事と家庭の両立は必要です。学問や研究開発でも、イノベーションを期待するなら「二つのことを同時に満たす」発想が不可欠です。「両立」が大事なのです。

「私立的部活動」は、自主活動に意味がある

一方で、そういう公立に対して、私立では「勉強だけしていればいい」という教育をしているのでしょうか。中にはそういう学校があるかもしれませんが、私が知るところでは、私立の上位校ほど実はそうではありません。「勉強の私立」ではありますが、日本の教育システムの中で部活がなくなることはありません。

ただし、部活の意味はだいぶちがっていて、私立の部活動は「自主活動」であるところに大きな意味があります。生き生きとして主体性を発揮するところに部活動の意義を見出しているのです。

「公立的部活動」も基本はいっしょですが、大多数の中学生にやらせている意味はちょっとちがうところもあって、「部活でもしなければ、ほかにすることがないでしょ?」、「部活でしか、いいところが出せませんから」、「部活をしていないと、何をするかわかりませんからね」という発想も中にはあるのです。

確かにやっているうちは楽しく、手応えもあるし、一生懸命取り組んだことは結果的には人生の財産になります。しかし、部活を引退したとき、何をしていいかわからない子どもが見受けられるのも事実です。部活が本当の意味で「自主活動」だったら、そうはならないはずです。管理してもらっていたから、部活引退後に管理の空白ができるのですね。

私立学校では勉強を頑張っていますが、部活を抜きにして勉強だけ頑張っているように見えるのかもしれません。しかし、勉強ができることは、勉強だけできることとはちがいます。他にも何か自分らしい特技を持っていたり、自主活動をしたりしている子は多いです。しかも、かなり高いレベルで成果を上げています。

私立には、いろんな地域からいろんな個性をもった子どもたちが集まります。公立学校でいうと、地元主体の小中学校ではなく、広い地域から生徒が集まってくる高等学校のようなイメージでしょうか。一人一人が「ちがう」ということ、自分もその中の一人であり、多様であるということは、相互尊重の礎になります。

勉強ができるというだけのことを鼻にかける子は上位校ほどいなくなります。周りには勉強だけでなく、部活や他のこともできる子がいるのですから、あまり鼻は高くなれません。「だからみんな同じ無個性」かというとそうではなくて、「だからみんな自分らしく」いられるのです。