「公立的部活動」は、部活メイン、勉強サブの教育になることがある

さて、公立学校では、「勉強はできなくてもいい。人間性が大事。部活だけしていればいい」と発言する管理職が実際に存在しています。

前半の「勉強はできなくてもいい」は本当ですね。

公教育というのは、「勉強する機会は公平にある」というシステムですから、勉強をしていれば、総論として問題はありません。結果としての成績は「できたらいいね!」の話で、全部の教科がものすごくできなくてもいいのです。

ただ、「勉強はできなくてもよい」は、「勉強しなくてもよい」ではありませんし、「少しだけすればよい」でも「あとですればよい」でもありません。きちんと勉強することが前提で、その結果は様々あっていいということです。

では、後半の「部活だけしていればいい」はどうでしょうか? 部活だけしていたら、生徒の人格は完成され、世の中はよくなるのでしょうか?

「あれ、私の考え、そのとおりだ」と思ったお母さん、それは危ないですね。

そして、教員にもそう思っている人がたくさんいます。

公立中学校が荒れた時代、部活動で学校を立て直してきた経験のある先生は、その成功体験から、見てきたとおり、やってきたとおり、そう確信しています。その教え子だった親世代の人たちも、そう信じています。

そういう先生には、熱い先生が多いですね。みんないい先生です。寝食を忘れて、盆暮れなしに部活を指導してきたのですから。でも、教育の考え方としては、世界がちょっと狭くなるかもしれません。勢い、外の世界を批判しがちになります。

「東大卒は、勉強はできるかもしれないが、経験は何もない。一人では何もできないくせに、的外れの命令だけしてくる。人間性に問題ありだ」

文科省から管理職が出向してくる県の部署には、そう思う人がいます。

当然です。自分より仕事を知らない人が、いきなり「上司」になるのですから。一般企業でいうと、突然、親会社の誰かが自分の上司として飛ばされてくるのと同じですね。

ただ一方で、中央官庁から出向してくる彼らも(東大卒とは限りませんが)、自分が好き好んで来ているわけではないのですね。社会の仕組みにしたがって、その役割を果たしているのです。