なぜか、いつもパイオニア
入社して、わかった事は、ここには、キャビンアテンダントをめざしていた、美人で、英会話ができる女性が多い事でした。
実際、翌年に受け直し、夢を叶え退社し、キャビンアテンダントに転身していった同期生もいました。そんな中、私は、世間知らずで、化粧も慣れておらず、雰囲気が全くちがい、皆から浮いていました。彼氏がいないのも、私だけでした。
私は、ちがう世界に迷い込んだと自覚しましたが、お金のためと割りきり、仕事に励みました。皆、ブランド品を持ち、その話で盛りあがったりしていましたが、私は、我関せずと、気にしませんでした。サラリーマンの兄と同じように、給料は全部、家に入れていました。
三年目の一九九一年は、モーツァルトの没後二〇〇年でした。音楽が好きな私は、ひらめくものがあり、「ソニーのスピーカーで聴く、モーツァルト没後二〇〇年」という企画書を書き、提出しました。
それまで、ショールームで行われる、製品紹介のイベントは、東京の本社が企画をし、それに基づき、私達アテンダントが、司会進行をしていました。
私の企画は採用されました。アテンダントが企画するイベントは、初めての事でした。私は、主体的であると、仕事とは、こんなにもやりがいがあるものなのかと、うれしく思いました。
イベントは成功裡に終わりました。しかし、この事から、皆の中に、私への抵抗感が生まれたようで、私は居心地の悪さを強く感じるようになりました。体力も限界でした。
私は、退職を決めました。先の事は、何も決まっていませんでしたが、(もはや、これまで!)と、心の声が言うのに従いました。
母は、私の退職を責めましたが、当事者である私の苦痛を、わかろうはずもありません。
辞めてすぐ、私は、長年苦しんできた左耳の慢性中耳炎を治したいと思い、手術を受けに、入院をしました。破れて無い鼓膜の代わりに、こめかみの筋膜が張られ、炎症で溶けて無くなった耳小骨の代わりに、セラミックが入れられました。
この時、飲んでいる薬のチェックがあり、ステロイドを飲むのをやめるようにと、医師から言われました。また足裏が痛くなるのかと、不安でいっぱいになりましたが、幸いな事に、ステロイドをやめても、もう足裏の炎症は出ませんでした。
手術は成功だと言われましたが、聴力は少しも戻りませんでした。その後、ある放送会社で半年契約のアルバイトを終え、私はまた、再就職をめざしました。
ある朝、新聞の求人欄で、産経新聞社の役員秘書募集を見つけ、私は(行きたい!)と強く思いました。でも、募集要項には、二十五歳迄と書かれてあるのに、私は二十六歳になっていました。
新聞に穴があくほど見つめ続け、私は(やる!)と決めました。履歴書に、二十五歳と偽りを書き、生年月日は本当を書き、提出しました。面接までこぎつけました。