失墜

コール・ポーターの名曲『ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス(よくあること)』には次のような一節がある。

「二人の恋は熱すぎて冷めないわけにはいかなかった……」。

「雨に唄えば」以後のジーンの映画人生をこの言葉になぞらえれば、ミュージカル映画の高みを極めすぎて、あとは落ちていくしかなかったということになる。

もっとも、この本の目的はジーン・ケリーの業績を通してミュージカル映画の進歩を描くことなので、彼が成し遂げたミュージカル映画の完成形―あくまでその時代における完成形だが―をすでにたどった以上、これ以降の彼の映画について詳しく語ることはしない。

ただここまで読んでくださった方にこの後の彼の人生を語らないと、尻切れトンボのようで後味が悪いので、簡単にではあるが書いておきたい。

「巴里のアメリカ人」が賞を総なめにした一九五二年三月のアカデミー賞の授賞式にジーンの姿はなかった。アメリカに居なかったのである。

五十一年十二月に議会を通った法律により、十八ヶ月間を海外で過ごした者には所得税が免除されることになった。海外で軍務に就いたり石油産業に従事したりする者を優遇するのが主な目的であったが、適用される職業が限定されているわけではなかった。

さっそくこの制度を利用しようと、多くのスターがイギリスに移り住んだ。エヴァ・ガードナー、ゲーリー・クーパー、カーク・ダグラス、クラーク・ゲーブル、ハンフリー・ボガートとローレン・バコール夫妻なども含まれていた。

もちろん、映画会社にとっても好都合な面があった。イギリス国内で生み出されながら凍結資産としてアメリカに持ち込めない収益を、自社のスターを使い英国や欧州で映画製作に使うことができたからである。

ジーンもエージェントのルー・ワッサーマンの勧めで、一家でイギリスへ移り住むことになった。もっともこの移住は税金対策だけが目的ではなかったと言われている。

再び激しくなった赤狩りの追及の手を避ける目的もあったというのだ。